『トンイ』ではチ・ジニが演じた粛宗(スクチョン)は1661年に生まれた。ドラマでは人の良い国王として描かれていたが、実際の粛宗は、官僚たちを対立させて消耗させるという戦略家の一面を持っていた。そのおかげで、彼は王権を強化することに成功した。
彼の気質は、母親によく似ていたと言われている。
母の明聖(ミョンソン)王后は賢明で、ものごとを合理的にとらえられる人だった。その反面、感情が激しく、宮中でも激情的にふるまうことがあった。粛宗も似たような性格を受け継いだ。
成し遂げた業績を考えれば、粛宗は有能な王であったといえる。少なくとも、彼は“お飾り”ではなく、自分の頭で考えようとした。自分の意見に固執するところがあったが、鋭い感性の持ち主でもあった。
1674年に粛宗が13歳で王位についたとき、朝鮮半島はまだ清に侵略された後遺症から抜けきれていなかった(1637年に朝鮮王朝は清に屈伏し、以後もさまざまな干渉を受けた)。
粛宗は庶民の暮らしを向上させるために、特に農業地の整備に力を注いだ。同時に、商業を奨励して本格的な貨幣鋳造事業を行ない、市場の活性化にも尽くした。こうした政策は粛宗ならではの独自性があった。
元来、朝鮮王朝が国教として崇(あが)めた儒教は、商業を低く見る傾向があった。礼に基づいた精神世界を語ることこそが高尚とされ、物質的利潤を求めることは卑下されていた。
しかし、粛宗は民生の安定には商業の発展が欠かせないと考え、そのための制度を整えた。彼が断行した商業政策は、17世紀から18世紀にかけて庶民生活の向上に寄与したといえる。
さらに、粛宗は国防にも力を入れた。
辺境地域に城を築いて軍備を増強した。そういう姿勢が、異民族の侵略を未然に防ぐ働きをしたことは間違いない。粛宗は、歴代27人の王の中でも、強力な統率力をもった指導者の1人であった。
そんな彼でも大いに苦慮したのが「党争」だった。歴史を見れば、朝鮮王朝時代に国王は党争に悩まされたが、粛宗の治世時には高官たちが南人(ナミン)派と西人(ソイン)派に分かれて激しく争った。
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お互いに相手をつぶすために手段を選ばず、宮中はおぞましい策略の巣窟(そうくつ)となってしまった。
ただし、粛宗はこの党争を逆に王権の強化に利用しようとした。
粛宗は党派の対立を見越したうえで、自分に対して忠誠を尽くす側を厚遇するという手法で王の権威を高めていった。そういう意味で、粛宗はしたたかな政治力を持った王であった。
ここまでの話であれば、粛宗が名君として揺るぎない評価を得るのが当然かもしれない。しかし、彼とて完璧ではない。むしろ、ほころびが目立つ王でもあった。その最たることが女性問題だった。
彼は、王妃や側室の間の争いをおさめることができなかった。それどころか、自ら火種を持ち込むことも多かった。宮中の「大奥」を混乱させた張本人と言われても、仕方がない面があった。
1689年に仁顕(イニョン)王后をいきなり廃妃にして、側室の張禧嬪(チャン・ヒビン)を王妃に昇格させた。しかし、5年後には張禧嬪を再び側室に戻し、一度は実家に帰した仁顕王后を再び正室に迎えている。
すべて粛宗の独断で行なったことで、こんな国王は朝鮮王朝でも前代未聞だった。しかし、それを平然とやってのけるところが粛宗らしいともいえる。彼は王権をわがままに使いこなせる国王であったのだ。
文=康 熙奉(カン ヒボン)
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