朝鮮王朝の王妃であれば、国母(クンモ)と呼ばれて国家の「ファーストレディ」として最高の称賛を受ける存在だったが、全員がそうだったわけではない。中には、自害を余儀なくされた3人の王妃もいた。順番に紹介していこう。
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1人目は廃妃・尹氏(ユンシ/1445~1482年)である。
彼女は9代王・成宗(ソンジョン)の二番目の正妻であった。だが、国王が寵愛する側室を呪詛(じゅそ)しようとしたことが発覚し、謹慎処分を受けることとなる。さらに、心の乱れが頂点に達し、成宗の顔を鋭い爪で激しく引っかくという騒動を起こしてしまった。
これが決定打となり、尹氏は廃妃されて、実家へと戻された。もともと成宗の母である仁粋(インス)大妃から嫌われていたこともあり、ついには死罪を言い渡された。
2人目は廃妃・柳氏(ユシ/1576~1623年)だった。
15代王・光海君(クァンヘグン)の正妻であった彼女は、1623年のクーデターで夫が廃位されたことにより、共に江華島(カンファド)へ流された。誇り高き柳氏は、光海君に向かって「潔く死にましょう!」と訴えたが、彼は屈辱の中でも生き抜く道を選んだ。
しかし、追放された息子夫婦が脱出を試みるも失敗し、無惨にも命を落としてしまう。息子を失った柳氏は深い絶望に沈み、最後には自ら死を選んだ。
3人目は張禧嬪(チャン・ヒビン/1659~1701年)である。
彼女は19代王・粛宗(スクチョン)の側室として寵愛を受け、ついには王妃にまで昇り詰めた。1688年には王子を出産し、我が子が世子(セジャ)にまでなったことで、彼女の栄光は頂点に達したかに思われた。だが、その幸運は長く続かなかった。
粛宗の寵愛は次第に冷め、王妃から再び側室へと降格されてしまった。さらに、1701年には神堂を建てて仁顕(イニョン)王妃を呪い殺そうとした罪に問われ、ついに死罪を言い渡された。
王妃とは華やかな存在でありながら、その運命は時として本当に過酷なものだった。
文=康 熙奉(カン・ヒボン)
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