【韓ドラになった歴史人】張禧嬪はなぜ死罪にされてしまったのか

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韓国時代劇に本当によく登場する張禧嬪(チャン・ヒビン)は、朝鮮王朝の悪女の代名詞になっている。彼女は1659年に生まれたが、女官として王宮に入った後に19代王・粛宗(スクチョン)に見そめられた。

【関連】【王宮の裏エピソード】張禧嬪を「悪女」にしたのは誰なのか

しかし、粛宗の母親である明聖(ミョンソン)王后に「危険な女だ」と判断され、張禧嬪は宮中から追い出されてしまう。その後の張禧嬪は貧しい生活を強いられたが、1683年に明聖王后が世を去ると、再び宮中に戻ってきた。

その当時、王妃となっていたのが、張禧嬪より8歳年下の仁顕(イニョン)王后である。しかし、彼女と粛宗には子供がいなかった。それどころか、仁顕王后は病弱で床に伏せることが多かった。そういう状態が続いたため、粛宗の仁顕王后の想いは次第に薄れていき、粛宗は張禧嬪を寵愛するようになる。

側室となった張禧嬪は、1688年に粛宗の初めての息子を産んだ。その日から張禧嬪は、息子を王にするために何でもやり抜く鬼となっていった。彼女は仁顕王后を廃妃にすることを狙った。病弱とはいえ仁顕王后はまだ若いので、もし粛宗の息子を産むようなことがあると、張禧嬪が冷遇されるのは目に見えていた。

そこで張禧嬪は、激しさを増していた派閥争いを利用して、仁顕王后の追い落としを画策した。それがまんまと成功し、粛宗は仁顕王后を強引に廃妃にしてしまった。1694年、張禧嬪は念願の王妃となった。しかし、粛宗の心変わりを読めなかったことが誤算だった。

というのは、粛宗は次第に張禧嬪より側室の淑嬪(スクピン)・崔氏(チェシ)を寵愛するようになっていたのだ。この女性は韓国時代劇『トンイ』のヒロインになっていた女性だ。

『トンイ』の張嬉嬪
時代劇『トンイ』ではイ・ソヨンが張禧嬪を演じた

朝鮮王朝の悪女の代名詞となった女性

淑嬪・崔氏は、仁顕王后の味方だった。粛宗は淑嬪・崔氏の願いを聞き入れて、1694年に仁顕王后の王妃復帰を決めた。それによって、張禧嬪は再び側室に戻った。しかし、張禧嬪はそのままでは終わらなかった。彼女は祠を建てて、仁顕王后に呪術的な呪いをかけ続けた。

1701年に仁顕王后が亡くなった。そのとき、淑嬪・崔氏の証言により、張禧嬪が仁顕王后に呪いをかけていたことが暴露された。粛宗の怒りはすさまじく、張禧嬪は死罪を言い渡される。こうして、張禧嬪は毒を仰いで命を断たれた。

【張嬉嬪の人物データ】

生没年
1659年~1701年

主な登場作品()内は演じている俳優
『トンイ』(イ・ソヨン)
『イニョン王妃の男』(チェ・ウリ)
『チャン・オクチョン-張嬉嬪-』(キム・テヒ)
『テバク~運命の瞬間(とき)~』(オ・ヨナ)

文=康 熙奉(カン・ヒボン)

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