朝鮮王朝の国王の中で、巧みな戦略家という側面を強く持っていたのが、19代王の粛宗(スクチョン)である。彼は名君と言えるほど政治的な業績をあげているが、その一方で女性問題によって度々騒動を起こしている。その末に、側室から王妃に昇格できないようにする法律まで作った。
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実は、粛宗以前の国王の統治時代、側室から王妃にのぼりつめた女性が何人もいた。しかし、粛宗はそんな側室の夢を壊してしまった。なぜ粛宗はそんなことをしたのか。
具体的に言えば、法律が制定されたのは1701年のことである。当時、仁顕(イニョン)王后が病死し、張禧嬪(チャン・ヒビン)は冷たい裁きの手によって、呪詛(じゅそ)という重い罪に問われ、最期の瞬間を迎えた。
次の王妃の最有力候補として浮かび上がったのは、淑嬪・崔氏(スクピン・チェシ)であった。この女性は、ドラマ『トンイ』でハン・ヒョジュが瑞々しく演じたヒロインのトンイのモデルだった。
しかし、粛宗は奇妙で法律を制定し、淑嬪・崔氏の王妃への道を冷たく断ち切った。それこそが粛宗の真の狙いだったのではないか。実のところ、淑嬪・崔氏は、張禧嬪が死罪に至るきっかけとなった重大な告発をした張本人であり、さらに言えば、影で派閥を操る黒幕の愛人疑惑も王宮で噂になっていた。ドラマ『トンイ』のヒロインとは実像が違っていたのだ。
粛宗がそれを知らなかったわけではない。彼は静かに決断し、淑嬪・崔氏を王妃にすることは決して許されないと腹をくくった。そして、あえて「側室から王妃になれない」という法律を作り出し、彼女の昇進の道を閉ざした可能性が極めて高い。
粛宗の一手は、権謀術数が渦巻く王宮内において、まるで透明な刃のように運命を切り裂いた。結局、彼の狙い通り、王宮の安寧は保たれていった。粛宗は新しい王妃に仁元(イヌォン)王后を迎え、淑嬪・崔氏を王宮の外に出して冷遇している。粛宗というのは、つくづく「策士」のような国王だったのである。
文=康 熙奉(カン・ヒボン)
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