ドラマ『王になった男』はヨ・ジングが天才的な1人2役を見せた傑作時代劇だった。現在はBS日テレで放送しており、誰もが気軽に見ることができる。そこで、ドラマで描かれている光海君(クァンヘグン)の生き方をクローズアップしてみよう。
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朝鮮王朝第14代王・宣祖(ソンジョ)の子として1575年に誕生した光海君は、臨海君(イメグン)という兄がいた。彼らの父である宣祖は、自身が側室の子であることを常に意識していたため、正室との間に生まれた息子を世子(セジャ)にしたいと切望していた。しかし、正室である懿仁(ウィイン)王后は、宣祖との間に子をもうけることができなかった。
このため、側室から生まれた臨海君と光海君の中から世子を選ぶことになったのだが、朝鮮王朝には「長男が後継ぎになる」という厳格な原則が存在していたため、通常であれば臨海君が選ばれるべきであった。しかし、臨海君はその粗暴な性格と王の資質に欠ける行動が目立っていた。さらに、1592年の豊臣軍の朝鮮出兵の際には、臨海君が捕虜となるという失態を犯した。
一方、光海君は朝鮮出兵で優れた軍事的成果を挙げ、国を守るために尽力した。その結果、兄を差し置いて世子に選ばれることとなった。しかし、彼の地位を脅かす出来事が次々と発生する。
1600年に懿仁王后が亡くなると、宣祖は仁穆(インモク)王后と再婚し、息子の永昌(ヨンチャン)大君を設けた。これを非常に喜んだ宣祖は、永昌大君を世子にしようと望んだが、1608年に急逝してしまったため、その願いは叶わなかった。
仁穆王后も、まだ幼い2歳の永昌大君を即位させることはできないと考え、結果として光海君が朝鮮王朝第15代王として即位することとなった。
しかし、即位後も自分の地位が脅かされることを恐れた光海君は、その地位を守るために1609年に兄の臨海君を殺害し、1614年には異母弟の永昌大君も殺害するという凄惨な行動に出た。
これにより光海君は暴君と呼ばれてしまったが、その一方で、国防の強化や異民族の外交、庶民の税の負担を軽減させるなど名君としての一面も見せている。
最終的に、1623年に宣祖の孫である綾陽君(後の朝鮮王朝第16代王・仁祖〔インジョ〕)が起こしたクーデターにより光海君は廃位にされて、最後には済州島(チェジュド)に流罪となった。
最果ての地に追放された光海君は深い失望を味わったが、それでもその地で生活を続け、1641年に66歳で世を去った。
光海君は暴君でありながらも、名君としての側面を持つ複雑な人物であった。果たして彼の真の姿はどちらだったのだろうか。
文=大地 康
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