テレビ東京の韓流プレミアで放送中の『太宗 イ・バンウォン~龍の国~』は、5月9日の第25話で、チュ・サンウクが演じる李芳遠(イ・バンウォン)とキム・ヨンチョルが扮する李成桂(イ・ソンゲ)の親子対決が熾烈になっていった。まさに王朝が内乱状態となり、死者が続出する有様だった。
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しかし、これほどの戦乱はあくまでもドラマの創作だ。それならば、李芳遠と李成桂の親子は実際にどのように対立したのだろうか。歴史を振り返ってみよう。
1400年に李芳遠が3代王になっても、李成桂は李芳遠の即位を絶対に認めなかった。彼の怒りは尋常ではなかったのである。憤慨していた李成桂は、国王の証である玉璽(ぎょくじ)を持ち去って朝鮮半島北東部の咸興(ハムン)に帰ってしまった。そこは彼が育った故郷なのである。
困り果てたのが李芳遠のほうだった。彼は、玉璽を返してくれるように多くの使者を李成桂の元に送った。しかし、怒りがおさまらない李成桂は、そうした使者たちをことごとく殺してしまった。そのために、もはや李芳遠は、咸興に送った使者は帰ってこないものとあきらめるようになった。そこまで国王が落胆していたのである。
なお、今でも韓国ではこの故事から、行ったきり戻ってこない者をさして「咸興差使(ハムンチャサ)」と呼んでいる。「差使」は「使者」を意味している。
一方、自分の怒りのために多くの使者を殺してしまった李成桂は、やがて後悔するようになった。そのとき、尊敬していた無学(ムハク)大師からも大いに説得された。親子の対立は王朝にとっても最悪な事態を生んでしまっていたのだ。
相応の時間が必要だった。李成桂もようやく自分から折れて、都に戻ることを決心した。そのうえで、李成桂は玉璽を李芳遠に渡した。こうして険悪だった親子は、ついに和解することができた。
李成桂は1408年に74年の生涯を終えた。それは、朝鮮王朝が建国されて16年目のことであった。
文=康 熙奉(カン・ヒボン)
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