1392年に朝鮮王朝を建国した李成桂(イ・ソンゲ)は、もともと高麗王朝の武将だった。彼は最高の権力を手にして高麗王朝を滅ぼし、朝鮮王朝の初代王・太祖(テジョ)となった。
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その間、政敵たちを順番に排除したが、妻である神懿王后(シヌィワンフ)との間に生まれた6人の息子たちが大いに協力した。特に五男の芳遠(バンウォン)の活躍が目立った。
建国当時、太祖は56歳という高齢だったので、すぐに世子(王の正式な後継者)の選定を行なう必要があった。当然、神懿王后の息子の中から世子を決めると予測されたのに、実際は2人目の妻である神徳王后(シンドクワンフ)から生まれた八男の芳碩(バンソク)が選ばれた。
芳遠は怒った。そんな決定はとうてい認められなかった。彼は露骨に反逆し、1398年に芳碩を殺してしまった。
異母弟を手にかけた芳遠の残酷さを太祖は罵(ののし)った。しかし、いくら逆上しても太祖は芳遠を処罰することはできなかった。すでに息子は強大な軍事力を持っていたのである。
気落ちした太祖は二男の芳果(バングァ)を2代王・定宗(チョンジョン)として即位させ、自分は故郷の咸興(ハムン)で隠居した。
定宗には実質的な権力がなかったので、彼は弟を刺激しないようにして2年を過ごした後、芳遠に王位を譲った。その結果、1400年に芳遠は3代王・太宗(テジョン)として即位した。
太宗は剛腕の国王だった。王族同士の争いで乱れた政治を立て直し、民心の安定に力を注いだ。成果はたくさんあったが、それでも太宗は落ち着かなかった。故郷で隠居している父が王の証である玉壐(ぎょくじ)を渡してくれなかったからだ。
太宗は何度も父に使者を送った。しかし、太祖は使者たちをことごとく殺してしまった。王宮では「咸興に送った使者は帰ってこない」と極度に恐れた。
しかし、太祖は自分の意地のために使者を殺したことを後悔するようになった。そのうえで、彼は太宗に玉璽を返して余生を静かに送り、1408年に生涯を終えた。こうして朝鮮王朝初期に大問題となった太祖と太宗の深刻な確執は完全に終結した。
文=康 熙奉(カン・ヒボン)
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