始祖には8人の子…「王子の乱」を経て実権を握った“最強の王”とは誰か

2023年01月12日 歴史 #康熙奉コラム #写真
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高麗王朝は一夫多妻制だった。なにしろ、初代王の王建(ワン・ゴン)が勢力を伸ばすために政略結婚を繰り返し、30回ほど婚姻した人なのだ。

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この高麗王朝末期に武将として出世したのが李成桂(イ・ソンゲ)であり、彼は高麗王朝を滅ぼして1392年に朝鮮王朝を建国した。

こうして李成桂は初代王・太祖(テジョ)になった。最初の正妻は神懿(シヌィ)王后であったが、実は朝鮮王朝が建国される前年にすでに亡くなっていた。そして、朝鮮王朝の創設時の王妃は神徳(シンドク)王后だった。

太祖の子供について言うと、神懿王后には息子が6人いて、神徳王后の息子は2人だ。

そして、世子(セジャ)を指名するときに一番有力とされたのが、太祖の五男の芳遠(バンウォン)であった。とても優秀だったので、誰もが芳遠が後継者にふさわしいと考えていた。

『六龍が飛ぶ』ではユ・アインが太宗を演じた(画像=韓国SBS)

朝鮮王朝の基盤を作った王

本人もそのつもりで、自分が世子になれると思っていた。しかし、太祖が指名したのは八男の芳碩(バンソク)であった。そのときに芳碩はまだ10歳。一方の芳遠は25歳の立派な大人であった。

誰もが驚く指名なのだが、太祖が寵愛する神徳王后に懇願された結果だった。

しかし、この指名が火種となり、神徳王后が世を去った2年後の1398年には、神懿王后と神徳王后の息子たちの間で骨肉の争いが起きた。これが建国早々の朝鮮王朝を混乱させた「王子の乱」であった。

このとき、神徳王后の息子2人は殺されて、芳遠が実権を握った。しかし、彼は自分が王になってしまうと目立ちすぎるので、兄の芳果(バングァ)を2代王に即位させた。操り人形にして裏で政治を仕切ろうと思ったのだ。

そうやって2年だけ兄に国王をやらせて、1400年になって満を持して芳遠が3代王の太宗(テジョン)として即位した。

彼は最高実力者にふさわしく国王になってさらに強権を発揮して朝鮮王朝の基盤を作っていった。結局、朝鮮王朝が518年間も続く長寿国家になったのも、太宗の功績がとても大きい。まさに、史上最強の国王であった。

文=康 熙奉(カン・ヒボン)

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