『太宗 イ・バンウォン』で建国当初の王朝が大荒れになった原因はどこにあったのか

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テレビ東京の韓流プレミアで4月18日に放送された『太宗 イ・バンウォン~龍の国~』の第10話では、ついに李成桂(イ・ソンゲ)が新しい王朝を作って初代王となった。

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本来なら晴れやかな日になるはずだったのだが、李成桂の二男・芳果(バングァ)、三男・芳毅(バンイ)、四男・芳幹(バンガン)、五男・芳遠(バンウォン)は即位式への参列が許されなかった。李成桂が息子たちを絶対に許さなかったからだ。

チュ・サンウクが演じる李芳遠はまったく納得できなかった。彼は父に対して直談判するのだが、逆に冷たくあしらわれてしまった。李芳遠の不満がとてつもなく大きくなった。 

さらに、彼が激怒する事態が起こった。なんと、新しい王朝の世子(セジャ/国王の正式な後継者)になったのが、李成桂の八男の李芳碩(イ・バンソク)だったのだ。この件に関して史実で解説してみよう。 

李芳碩の母親は李成桂の第二夫人であった康氏(カンシ)である。李芳遠の実母だった第一夫人の韓氏(ハンシ)は新しい王朝が建国する前年に亡くなっており、最初の王妃になったのは康氏だった。

太宗イ・バンウォン~龍の国~
(画像=KBS)

李芳遠と王妃の対立

彼女は後に神徳(シンドク)王后と称されたが、お腹を痛めて産んだ李芳碩を世子にするのが最大の願いであった。結局、李成桂がその懇願を受け入れる形になった。

しかし、そのときの李芳碩はわずか10歳にすぎなかった。まだ経験があまりにも不足していたのである。

一方、李芳遠は25歳で血気盛んだった。高麗王朝を滅ぼすうえで最大の貢献をした実力者であり、その存在感を誰もが認めていた。それほどの人物を差し置いて幼い息子を世子にしたのだから、李成桂の息子たちの間で不協和音が出るのも必然だった。

李成桂はなぜそんな決断をしてしまったのだろうか。いくら王妃に頼まれたとしても国王としてきっぱり断る必要があったのに、李成桂はそれができなかった。『太宗 イ・バンウォン~龍の国~』でも、今後は李芳遠と王妃の対立が激しく描かれていくことだろう。

文=康 熙奉(カン・ヒボン)

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