朝鮮王朝22代王のイ・サン(正祖)は、現代の韓国でも特に有名な国王だ。人間的にも高潔で名君だったことが人気の秘訣なのだが、もう一つはドラマ『イ・サン』や『赤い袖先』で主人公になっていたことが大きかった。やはり、人気ドラマで取り上げられると、歴史上の人物とはいえ印象度が格別にアップするのである。
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それほど名前が知られた大王であるのだが、ドラマ『イ・サン』『赤い袖先』でまったく触れられなかった重要な話があつた。それは、最期は毒殺されたのかもしれない、という出来事なのだ。背景を解説していこう。
イ・サンは大王として君臨していた1800年、敬愛する父・思悼(サド)世子の陵墓がある水原(スウォン)に遷都しようと考え、実際に行動に移そうとしていた。しかし、急に発病して48歳で急死してしまった。このとき、疑われたのが毒殺である。首謀者は、英祖(ヨンジョ)の二番目の妻であった貞純(チョンスン)王后である。
かつて貞純王后は思悼世子ととても険悪な仲になっていて、思悼世子の素行の悪さを英祖に歪めて伝えていた。それが、親子の間で確執が生まれる契機となっており、思悼世子が米びつに閉じ込められて餓死した事件には、貞純王后も少なからず関与していたのだ。
イ・サンは、即位したときに貞純王后を処罰しようとしたが、形式上でも祖母にあたる人を孫が処罰するのは、儒教的な倫理観では不可能だった。
それで貞純王后は処罰されなかったのだが、彼女はイ・サンの命を狙い続け、常に毒殺の機会をうかがっていた。その末に1800年になってイ・サンの毒殺を実行した、というのが信憑性の高い史実になっている。実際、イ・サンが亡くなったあと、貞純王后は代理で政治を代行して、利権を独占した。彼女にはイ・サンを毒殺する動機がありすぎたのだ。
これは韓国では特別に有名な話だ。しかし、ドラマ『イ・サン』『赤い袖先』では毒殺説を取り上げなかった。物語が悲劇的に終わることを避けたため、と考えられている。
文=康 熙奉(カン・ヒボン)
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