粛宗(スクチョン)は1661年に生まれて1674年に19代王になっている。わずか13歳で国王になったわけだが、彼は一人っ子として相当に甘やかされて育ったので、性格がわがままだった。
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もともと頭脳明晰で経済の活性化や国防の強化などの善政を行なっている。粛宗の統治時代は内政も安定していて、政治的には名君と言っても過言ではない。しかし、側室の張禧嬪(チャン・ヒビン)をあまりにも寵愛しすぎて王宮の中で様々なトラブルも起こしている。
そんな彼も後継ぎがなかなかできないことを相当深刻に悩んでいた。彼には娘がいても男の子はいなかった。それゆえに1688年10月27日に張禧嬪が王子を生んだとき、尋常ではないほど大喜びした。
なお、朝鮮王朝で世子(セジャ)というのは次の国王になる資格を持ったナンバー2を意味しているが、後継ぎが世子に指名されるためには5歳くらいまで待たなければならない。それまでは元子(ウォンジャ)という資格になる必要がある。これは世子になる一番の候補という意味だ。
ただし、張禧嬪が産んだ王子はなかなか元子になることができなかった。なぜなら正室の仁顕(イニョン)王后がまだ21歳であり、病弱だったとはいえ男子を産む可能性が高かったからである。
それで、粛宗が長男を早く元子に指名したいと言っても、周囲の高官たちは反対していた。「王妃が王子を産むのを待つべきです」というのが大方の意見だった。
粛宗は苛立ちを募らせた。『朝鮮王朝実録』には、当時の粛宗の厳しい言葉が載っている。それは次のようなものだ。
「王家が後継者をなかなか決められないので、民衆が落ち着かない。今度こそ元子を決めたいと思っている。もし反対する者がいるなら官職を返上してすぐに王宮を出て行け」
そこまで粛宗が怒りの言葉を述べても、高官たちは反対し続けた。それほど仁顕王后は王宮の中でも慕われているし、彼女が産んだ男子こそが次の国王になるべきだという気持ちを持つ人が多かった。
そういう雰囲気を粛宗も感じていながら、彼はこう主張した。
「昔から後継者がいないのが一番の不孝だと言われている。余ももうすぐ30になろうとしている。後継者がいないので毎日心配ばかりしているのだが、ようやく王子が誕生した。それなのに元子に決めることができないのは何ということか」
こう嘆いた粛宗は、高官たちの反対を無視して自分一人で長男を勝手に元子に決定した。それが1689年1月10日のことであり、決まった元子こそが後の20代王の景宗(キョンジョン)であった。
文=康 熙奉(カン・ヒボン)
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