朝鮮王朝の21代王・英祖(ヨンジョ)というと、27人いる国王の中で一番長生きした人としてよく知られている。在位は52年に及び、82歳まで生き抜いた。本当に朝鮮王朝の歴史に残るような大王であった。
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この英祖には貞聖(チョンソン)王后という妻がいたが、彼女は1757年に亡くなってしまった。こうして独身となった英祖は、2年後に14歳の新しい王妃を迎えた。それが貞純(チョンスン)王后である。この時の英祖は65歳であり、夫婦の年齢差は51歳もあった。妻というよりは孫娘のような年齢だったのが貞純王后なのだ。
この貞純王后の父親は老論派の官僚であった。英祖は老論派に支持された国王だが、彼の息子の思悼(サド)世子は老論派を批判したために両者は対立関係になっていた。
形の上では貞純王后は思悼世子の母親に当たる。彼女は老論派に所属していた父親の言い付けを守って、思悼世子の良からぬ行ないを英祖に告げ口する役目を果たした。
結果的に、英祖が激怒して思悼世子が米びつに閉じ込められて餓死した。それは1762年のことであり、貞純王后が王宮に入ってから3年後のことだった。彼女はまだ17歳であった。
この若さでどれだけのことができたのかと不思議に思う人もいるかもしれないが、当時の17歳はもう立派な大人である。貞純王后は王妃として強い権力を発揮できる立場だったし、彼女は老論派に有利になるように動いたのだ。
しかも、貞純王后と義理の息子になる思悼世子は仲が極端に悪かった。それだけに、貞純王后は悪意を持って思悼世子の追い落としに力を尽くしたはずである。
もしも思悼世子と貞純王后の仲が良かったら、「朝鮮王朝の最大の悲劇」と言われた思悼世子餓死事件は起きなかったかもしれない。しかし、人間関係は思い通りにいかないものである。結果的に貞純王后と思悼世子が険悪な間柄であったために、あの悲劇は起こってしまったのである。わずか17歳とはいえ、貞純王后は「恐怖の10代」であったと言わざるを得ない。
文=康 熙奉(カン・ヒボン)
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