朝鮮王朝の歴代王の中で「毒殺されたのでは?」と推定されている国王が何人もいる。その中で特に疑いが濃いのが、12代王・仁宗(インジョン)、20代王・景宗(キョンジョン)である。
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仁宗に関しては、父の11代王・中宗(チュンジョン)の三番目の正室だった文定(ムンジョン)王后が犯人だったと見られている。この文定王后は自分が産んだ息子を国王にするために、中宗の二番目の正室が産んだ仁宗の命をずっと狙っていた。
結局、仁宗は文定王后に呼ばれて餅を食べたのだが、急に体調が悪化して絶命している。どう考えても、文定王后が毒殺したと見られても当然だった。
次に景宗について。
彼は張禧嬪(チャン・ヒビン)の息子なのだが、1720年に即位して4年で世を去っている。彼が亡くなったとき、景宗の異母弟の英祖(ヨンジョ)が疑われた。彼の指示で食事に毒を盛られたのではないか、という声が宮中で高くなっていったのだ。
結局、英祖は景宗の後を継いで21代王になったが、本来なら縁がなかった国王になれたのは景宗が亡くなったからだ。それゆえ、動機があった英祖が毒殺説の首謀者と噂されたのだ。
以上の2人の他に、もう1人、毒殺説の標的になった国王がいる。それが正祖(チョンジョ)である。
彼は1800年に体調を崩した。高熱を発してしまったのだ。
正祖の政敵として知られた貞純(チョンスン)王后は、病床に急に出てきて、周囲が心配する中で「私が薬を差し上げてみるから、みなの者はしばらく下がっておれ」と厳命した。仕方がないので国王の側近たちが病床から離れて部屋の外で待機することになった。
正祖のそばにいたのは貞純王后だけ。2人の間に確執があることは有名だった。
それゆえ、心配した側近たちが貞純王后の動向を監視しようとしたら、急に貞純王后が慟哭(どうこく)する声が聞こえた。驚いた側近たちが病床に近づくと、すでに正祖は息が絶えていた。
こうして正祖の最期をみとったのは貞純王后だけとなった。彼女は正祖の死期を早める細工をすることが可能だった。
果たして、真相は何なのか。
それを知っているのは貞純王后だけであった。それが、正祖の不運なところだった。
文=康 熙奉(カン・ヒボン)
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