時代劇『七日の王妃』ではパク・ミニョンが端敬(タンギョン)王后を演じているが、ドラマの序盤は子役が彼女の10代の頃を明るく熱演している。実際の端敬王后も若いときは意志がはっきりしている元気な娘だったようだ。
そんな彼女は1499年、12歳で晋城大君(チンソンデグン/後の中宗〔チュンジョン〕)と結婚した。晋城大君のほうが1歳下だった。
謎のまま消えた『七日の王妃』は史実ではその後どうしていたか?
10代の2人はどんな結婚生活を送ったのだろうか。
晋城大君は燕山君(ヨンサングン)の異母弟だが、王位継承権はないも同然の身分だった。すでに燕山君には世子(セジャ/国王の正式な後継者)となる息子がいたし、世子以外にも燕山君には3人の息子がいた。
こうした息子たちが王位を継承していく流れになっていて、王位継承に関しては晋城大君に出番はないと思われた。それだけに、晋城大君は王宮を出て市中に屋敷を構え、政治とは無縁の風流な生活をしていた。
これには理由がある。国王の弟である晋城大君がへたに政治に首をつっこむと、王位への野心を持っているとみなされる恐れがあった。それゆえ、政治にまったく関わらないほうが晋城大君にとっても都合が良かった。
こうして、晋城大君と端敬王后は王宮の緊張感から離れて、意外にのんびりと夫婦生活をいとなんでいた。
端敬王后は活発な性格だったので、賑やかな市中にひんぱんに繰り出して、楽しいことをたくさん見つけていたかもしれない。
そして、晋城大君の実母であった慈順(チャスン)大妃の元に挨拶に行ったりして、端敬王后は王族の長老たちにも礼を尽くしたはずである。
そんな生活が完全に一変したのが1506年だった。
クーデターが起こって燕山君は廃位となり、世子も廃されてしまった。結局、晋城大君は急に国王となって11代王の中宗(チュンジョン)になった。
必然的に、静かに暮らしていた端敬王后の運命も別人のように激変していった。そして、わずか7日で彼女は王妃の座から転落せざるをえなくなってしまった。
文=康 熙奉(カン・ヒボン)
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