『ヘチ 王座への道』の前半では、王族の中で不当に軽視されていたヨニングン(後の英祖〔ヨンジョ〕)が徐々に力をつけていき、やがて国王になることに意欲を燃やす過程が描かれていた。主役のチョン・イルがヨニングンを颯爽と演じていた。
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しかし、ヨニングンには問題があった。それは、淑嬪・崔氏(スクピン・チェシ)の息子であったことだ。
なにしろ、当時の国王だった景宗(キョンジョン)の母親は張禧嬪(チャン・ヒビン)なのである。よく知られているように、張禧嬪と淑嬪・崔氏は強烈なライバル同士だった。そのあたりは、淑嬪・崔氏が主人公となっていた『トンイ』でも細かく描かれていた。
同ドラマでは、ハン・ヒョジュが演じた淑嬪・崔氏とイ・ソヨンが扮した張禧嬪が激しく対立していた。それは、歴史的にも本当に有名な話だ。
その中でも、景宗が淑嬪・崔氏に対して絶対に許せない出来事があった。それは、母親の死罪の原因となったのが、淑嬪・崔氏の行なった密告だったからだ。
当時の状況を解説しよう。
1701年8月14日、粛宗(スクチョン)の正室だった仁顕(イニョン)王后が亡くなった。死因は病死と見なされたが、40日後に「仁顕王后は張禧嬪によって呪詛(じゅそ)されて亡くなったのです」という密告が粛宗にもたらされた。申し出たのは、粛宗の側室であった淑嬪・崔氏だ。
その密告に基づいて捜査が行なわれて、結局、張禧嬪は死罪になってしまった。
それだけに、張禧嬪の息子であった景宗が淑嬪・崔氏を恨むのも必然だ。そうなると、淑嬪・崔氏の息子であったヨニングンは立場が悪くなる。景宗から敬遠されても仕方がなかったのだ。
しかし、ヨニングンが国王になりたければ、世弟(セジェ)にならなければならない。世弟とは、「国王の正式な後継者となる弟」という意味だ。
景宗には子供がいなかったので、ヨニングンは世弟になれば国王をめざすことができた。しかし、淑嬪・崔氏の息子という不利をどうはねのけたのか。
結局、ヨニングンは権力を握っていた老論派と組むようになった。それは、『ヘチ 王座への道』で描かれたとおりだった。
文=康 熙奉(カン ヒボン)
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