【若き王の悲劇】短い治世で王権を行使できなかった睿宗の「なぜ?」

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朝鮮王朝8代王の睿宗(イェジョン)は、『韓明澮~朝鮮王朝を導いた天才策士~』や『王と妃』『王と私』『インス大妃』といった時代劇に登場した人物だ。

最近では、アカデミー賞に輝いた映画『パラサイト 半地下の家族』に出演した俳優イ・ソンギュンの時代劇映画『王様の事件手帖』も、睿宗がモデルとされている。

彼は、7代王として即位した父親の世祖(セジョ)の二男として1450年に生まれた。彼には懿敬(ウィギョン)という兄がいたため、本来なら王になることはできなかった。

映画『王様の事件手帖』より
(写真=ⓒ 2017 CJ E&M CORPORATION, FILM COMPANY RAM. ALL RIGHTS RESERVED)

しかし、世祖が即位したことで18歳で世子(セジャ)となった懿敬は、その2年後に病で世を去ってしまう。

その結果、当時7歳だった二男の海君大君(ヘヤンデグン/後の睿宗)が世子となったのである。

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その後、1468年9月に18歳で8代王となった睿宗だが、まだ未成年で立場的に王権を行使することができなかった。

王が未成年で即位した場合、朝廷で一番序列の高い王妃や側室などの女性が代理で政治を行なうことが多く、睿宗のときは母親の貞熹(チョンヒ)王后が務めていた。

優しい性格

当時の朝鮮王朝としては、初めての試みとなった「垂簾聴政(スリムチョンジョン)」と呼ばれる代理政治。

睿宗は、貞熹王后の後押しや韓明澮(ハン・ミョンフェ)や申叔舟(シン・スクチュ)などの補佐によって王務を行なっていた。

しかし、長男の懿敬もそうだったが、世祖の息子たちはみんな長生きできなかった。睿宗の在位期間はわずか1年2カ月と短く、

1469年11月に19歳で亡くなったが、王らしい振る舞いがないわけでもない。彼にはこんな逸話が残っている。

生まれつき優しい性格で周囲からの信頼を得ていた睿宗だが、公私の区別ははっきりとしていた。

ある日、睿宗の乳母が側近の犯した罪を許してほしいと懇願してきたが、彼は「王は私情で動くことはできない」とその頼みを断った。

さらに、1469年9月には朝鮮王朝時代の基本法典と言える「経国大典」を完成させている。

未成年だったこともあり、自ら王権をあまり行使することのできなかった睿宗。もし、彼が長生きしていたら、朝鮮王朝はいったいどんな時代になっていたのだろうか。

文=大地 康

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