不滅の名将だった金庾信(キム・ユシン/595~673年)は、若い時から、朝鮮半島に輝かしき統一が訪れるのを夢見ていた。
その生涯における心の友が金春秋(キム・チュンチュ)であった。金春秋は654年、新羅(シルラ)の29代王・武烈王(ムヨルワン)として即位した。すでに彼は金庾信の妹を妻としており、家族の絆と政治的な信頼が強く結ばれていた。
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王となった武烈王の後ろ盾を得たことで、金庾信は心置きなく軍を動かすことができるようになった。
新羅は大国・唐と手を結び、660年に百済(ペクチェ)を滅ぼした。翌661年、武烈王は57歳でこの世を去るが、その大望は盟友・金庾信に託された。金庾信は、668年に強大な高句麗(コグリョ)をも打ち破り、ついに三国統一という歴史的偉業を成し遂げた。
しかし、栄光の背後に試練の影が忍び寄る。唐は味方でありながら、百済と高句麗の旧領を奪い取ろうとした。新羅は同盟国だった大国との熾烈な戦いを余儀なくされた。
その激戦のさなか、金庾信の息子・元述(ウォンスル)が大切な戦闘で敗れて戻ってきた。彼は自らの命をもって償おうとしたが、忠義に厚い部下たちに命を救われ、捲土重来を誓った。
だが、父である金庾信は冷徹であった。血を分けた子であろうと、規律に背く者を許さなかった。時の30代王・文武王(ムンムワン/金春秋の息子)に処遇を問われた金庾信は、毅然としてこう答えた。
「王命を汚した元述は斬るしかありません」
文武王はその言葉に心を揺さぶられながらも、元述の命を惜しんだ。元述は深く恥じ、静かに山中へ身を隠し、それきり父とは二度と会わなかった。
673年、金庾信は78歳で生涯を終えた。彼の訃報に接した文武王は声をあげて泣き、壮麗な葬儀を行い、碑を建ててその功績を讃えた。王が金庾信の妻に語った一言は、彼の偉大さを雄弁に物語っている。
「君臣が枕を高くして寝られるのは、すべて金庾信のおかげであった」
金庾信の一生は、戦火のなかに燃え尽きた忠誠と誇りの物語であり、朝鮮半島に真の統一をもたらした壮絶な魂の記録である。
文=康 熙奉(カン・ヒボン)
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