朝鮮王朝の宮廷に、逆境を力強く生き抜いた1人の王女がいた。それが貞明公主(チョンミョンコンジュ)である。彼女の名は、災厄と恩寵が交錯する宮廷史のなかで、ひときわ静かに、しかし鮮烈な光を放っている。
1603年に朝鮮王朝第14代王・宣祖(ソンジョ)と正室・仁穆王后(インモクワンフ)のあいだに生まれた王女は、生まれながらにして国の未来を託された存在だった。弟・永昌大君(ヨンチャンデグン)の誕生により、その小さな一家は王宮の中でも特に注目されていた。
しかし、その幸福は長くは続かない。1608年に宣祖が崩御し、玉座に就いたのは側室の子・光海君だった。
正室出身の王妃とその子らを、政治的脅威とみなした光海君の側近たちは、冷酷な粛清に踏み切る。まだ10歳にも満たない永昌大君は母のもとから引き離され、寒風吹きすさぶ地に追放される。
1614年に光海君の側近らは密かに刺客を差し向けた。標的となった永昌大君の居室では、床下のオンドルに異常なほどの熱が加えられたのである。逃げ場のないその室内で、永昌大君は耐えがたい高温に晒され、ついには命を落とす結果となった。
残された母と姉、すなわち仁穆王后と貞明公主は、王族としての身分を剥奪され、西宮(スグン/現在の徳寿宮〔トクスグン〕)に幽閉される。自由な外出も、交際も許されぬ閉ざされた日々だが、その中で貞明は筆を手に取り、書の世界に没頭していく。
母の心を支えたのは、黙々と文字に向かう娘の背だったという。彼女が残した“華政(華やかな政治)”という言葉は、のちに多くの人々の記憶に刻まれる。
1623年に政変が起きて光海君は廃され、仁祖(インジョ)が16代王として即位した。長きにわたる幽閉生活はようやく終わりを告げた貞明公主は20歳を超えたため、王女としては遅い縁談を迎える。
選ばれた相手は名門・洪氏の子、洪柱元(ホン・ジュウォン)だ。結婚に際しては邸宅と広大な土地が下賜された。これは、政治に翻弄された母娘への償いでもあった。
その後、貞明公主は7人の息子と1人の娘を育て上げ、幾度も政権が移り変わる激動の時代を静かに見つめ続けた。
1685年に82歳でその生涯を閉じた貞明公主。その歩みは、奪われたものの記憶にただ浸るのではなく、なおも前を向いて生きた気高き女性の記録である。
血筋や権力よりも、人としての強さと気品が、この王女を永く語り継がれる存在とした。彼女の名は、歴史の陰に咲いた一輪の白い花のように、今もなお静かに人々の胸に咲いている。
文=大地 康
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