古代国家の新羅(シルラ)は676年に朝鮮半島を統一したが、その前に新羅を強い国家に導いた26代王・真平(チンピョン)王の長女が徳曼(トンマン)だった。
小さいころからとても聡明で、真平王が632年に亡くなると、徳曼が27代王・善徳(ソンドク)女王として即位した。女性でありながら王座に就くというのは当時として異例だった。
そんな善徳女王がもっとも力を注いだのは、中国大国を支配している唐と親密な関係を築くことであった。唐との連携は、新羅の命運を左右する鍵だと見抜いていたのだ。そのため、女王は幾度となく使者を唐へと送り、礼節を尽くして誠意を伝えた。その姿勢は、風に頭を垂れる稲穂のように謙虚であった。
当時の朝鮮半島は、まさに戦火の渦中にあった。北には高句麗(コグリョ)があり、南西は百済(ペクチェ)が治めていた。新羅はその狭間で絶え間ない領土争いに身を置いていた。
638年、高句麗が新羅の北部を急襲したという報せが王宮に届いた。恐れた民たちは、野を捨て山に逃げ込んだ。そのとき、善徳女王は人々に落ち着くよう呼びかけ、大軍を率いてただちに北へと兵を進めた。そして新羅軍は、高句麗軍に見事な勝利を収めた。その指揮は、まるで嵐のなかで星を指さすように明晰であった。
善徳女王はまた、霊感が強い女性としても知られていた。その勘の良さで、百済の兵の侵攻を悟って、先に敵を排除したこともあった。まさに、善徳女王の霊感が、国を滅亡の淵から救ったのである。
その統治力の素晴らしさは内政にも及んだ。彼女は民の暮らしに深く思いを寄せ、疲弊した庶民をたびたび慰問した。ときには税を1年間免除するという大胆な政策を打ち出し、人々の生活をしっかり支えた。その慈悲は確かに民衆の心に染みわたった。
このようにして、善徳女王は戦乱の時代を毅然とした姿で生き抜いた。彼女の聡明さと霊感、そして深き慈しみの心が、新羅という国を支えた柱となっていたのである。
文=康 熙奉(カン・ヒボン)
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