テレビ東京の韓流プレミアで放送中の『ホジュン~伝説の心医~』では、7月18日の第58話で戦乱がますます激化していった。その中で、ホ・ジュン(演者キム・ジュヒョク)は医官として全力を尽くしていた。
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一方で、史実では壬辰倭乱(イムジンウェラン/日本では「文禄の役」と言う)の戦局はどのようになっていただろうか。
14代王・宣祖(ソンジョ)は首都の漢陽(ハニャン/現在のソウル)を離れて平壌(ピョンヤン)で避難していたが、そこも危なくなってしまった。結局、1592年6月11日、宣祖は北端の義州(ウィジュ)まで退避することになった。
一方、北上を続けた小西行長軍は、平壌の手前の大同江(テドンガン)に至ったのだが、大河の流れに難儀した。この大同江は水が深い。手元には舟もなく、当初はどうすることもできなかった。
その様子を見ていた平壌の守備軍も、まったく楽観できなかった。
「このところ雨が降らないので、いずれ水かさが減る。しかも、上流には浅瀬がある。そこを見つければ、一気に賊が渡ってくるだろう」
このように憂える声があった。案の定、小西行長軍はやがて浅瀬を見つけて大同江を渡ることに成功し、ほどなく平壌を陥落させた。
かつては高句麗(コグリョ)の都だった平壌。この大都市を占拠して、小西行長軍の勢いはさらに増しているようにも思えた。しかしながら、豊臣軍をめぐる情勢には明らかな変化が現れ始めていた。
戦局を劇的に変えたのが李舜臣(イ・スンシン)の存在だ。水軍の偉大な将軍だった彼は、地形を熟知した戦術で成果を挙げた。
もともと、豊臣軍の水軍が保持する船は拙速に造られたものが多かった。しかも、荒波の海戦に耐えられる大型船が少なく、慣れない海域での戦いでは明らかに不利であった。
以後も李舜臣は連戦連勝で、豊臣軍の水軍を壊滅状態に追い込んだ。それによって、壬辰倭乱の戦局も大きく変わり始めていた。そのうちに明からの支援隊もやってきて、豊臣軍は徐々に劣勢になっていった。
文=康 熙奉(カン・ヒボン)
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