悪評だらけの「非道な王」が名君と評される根拠は何か

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ハングルを作ったことで有名な4代王・世宗(セジョン)の二男として生まれた世祖(セジョ)は、長男ではないので本来は国王になれないのだが、彼は甥の端宗(タンジョン)から王座を強奪してしまった。それだけではなく、ついに端宗を強引に死罪にしてしまい、反抗した弟も殺している。世祖は本当に非道な国王であったのだ。

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しかし、政治家として見ると、とても有能だったと評される意見もある。根拠となっているのは、朝鮮王朝の基本法典として重要な「経国大典」の編纂を始めたことだ。この「経国大典」は、その後も朝鮮王朝の政治と暮らしの中心になる法律となり、多くの人が恩恵を受けることとなった。

そういう意味で言うと、幼い端宗が政治を担当するより実力者の世祖のほうが、さまざまな面で成果が多かったことは事実だった。それによって、「世祖は名君だった」と考える人たちも確実にいたのである。

映画『観相師』ではイ・ジョンジェが首陽大君を演じた
(写真=© 2013 SHOWBOX/MEDIAPLEX AND JUPITER FILM ALL RIGHTS RESERVED.)

悲劇的な結末

しかし、どんなに政治的な業績が多いとはいえ、それが免罪符になるわけではない。なんといっても、礼節を重んじる儒教を国教にしていた朝鮮王朝では、世祖は正統的な王とは言えなかった。あくまでも異端の王であり、それが今に至るまで世祖の評判が悪い理由になっている。

そんな彼にも悲劇的な結末があった。というのは、長男の懿敬(ウィギョン)は世祖の即位と同時に世子(セジャ)になったのに、わずか19歳で急死してしまった。歴史書によると、昼寝をしている間に懿敬は突発的に死んでしまったという。それで、世祖は「因果応報の祟りだ」と噂されたりした。

悲観した世祖は仏教に救いを求めたが、悲しみは癒えなかった。

こうして、最愛の息子を亡くして世を恨んだ世祖は1468年に51歳で絶命した。

そして、世祖の後を継いだのは二男の睿宗(イェジョン)だったが、彼も19歳で世を去った。

世祖の運命は、最後はあまりに悲しすぎた。
 
文=康 熙奉(カン・ヒボン)

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