朝鮮王朝には歴代で27人の国王がいて、幸せに統治をやり抜いた人もいれば、結局は統治に失敗した人もいる。それぞれの人生が国王にもあったわけだが、不本意な形で統治を終えた国王の典型だったのが、『オクニョ 運命の女(ひと)』にもよく出てきた13代王・明宗(ミョンジョン)であった。
その「不本意」とは何なのか。
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彼の短い人生を追ってみよう。
明宗は1534年に生まれている。父は11代王・中宗(チュンジョン)なのだが、母は中宗の三番目の妻だった文定(ムンジョン)王后だ。
明宗は国王の後継者になれる立場ではなかった。すでに世子(セジャ)には異母兄が決まっていた。この異母兄は明宗より19歳も上だった。
そして、中宗が1544年に世を去ったとき、異母兄は12代王の仁宗(インジョン)として即位した。彼は性格がとても良く、民衆の誰もが期待する国王だった。
しかし、仁宗は即位してわずか8カ月で急死してしまった。恐ろしいことに、文定王后によって毒殺されたと推定されている。自分が産んだ息子を国王にしたいために、文定王后が凶行に及んだのだ。
こうして、自分が望んでいないにもかかわらず、明宗が13代王として即位した。このとき、彼はまだ11歳だった。
未成年の国王が誕生すると、王族の最長老女性が政治を代行することが朝鮮王朝の慣例だった。その結果、文定王后が摂政を行なうことになった。
このとき、彼女はいったい何をしたのか。一族で政権を独占し、賄賂を横行させ、干ばつで苦しむ庶民を見殺しにした。餓死者がとても多かったのに、文定王后は何ら有効な手をうたなかったのだ。
そんな悪政が続いて、明宗はとても精神的に苦しんだという。彼は優しい性格だったので、母の摂政に耐えられなかったのだ。
しかし、明宗が成人しても文定王后は権力を手放さず、国王は女帝の言いなりになるしかなかった。そればかりか、文定王后はときには明宗を叱責したり、頬をたたいたりしたという。本当にひどい母親だった。
そんな文定王后は1565年に世を去った。
ようやく明宗は自立することができて、文定王后が重用した奸臣たちを追放した。新しい時代が来ると予感されたのだが、明宗は1567年に急死した。まだ33歳だった。
彼が新しい政治を長く続けていれば、朝鮮王朝はどんなに良かったことか。しかし、彼は母親の悪政によって心労が極度に積み重なっていて、ストレスが命を縮めたのであった。明宗は母親の犠牲者とも言えた。
文=康 熙奉(カン・ヒボン)
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