【深発見18】史跡を旅して感じた朝鮮民族の生命力の強さ

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朝鮮王朝後期の代表的な城郭建造物は、南漢山城の南の水原(スウォン)市にある華城(ファソン)だ。

華城と南漢山城は、世界文化遺産にも登録されている。華城が築かれたのは、丙子胡乱から約160年後のことである。

朝鮮王朝後期の聖君として知られ、『イ・サン』などドラマにもなった正祖(ジョンジョ)は、党争に巻き込まれ非業の死をとげた父親の墓を、この地に移したのをきっかけに、大規模な築城をした。それが華城であり、華城は朝鮮王朝時代の最も優美な城として知られている。

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日本で城と言えば、天守閣のイメージが強いが、韓国では南漢山城にしても華城にしても、城壁に囲まれた城郭をさすことが多い。

ただし山の上にある南漢山城が有事に備えた実戦用の城であるのに対し、平地にある華城は、防衛的な意味も持っているものの、芸術的な優美さを持った城郭である。

正祖は一説には毒殺とも言われ、48歳で亡くなっているが、もし正祖が長く生きていれば、華城に都を移す計画もあったという。それだけに、力の入れようが伝わってくる。

また華城のある水原はかつて、韓国を代表する牛の取引所があった所で、カルビがうまいことで知られる。

水原もソウルからは日帰りの観光地だ。華城を見た後は、骨太で薬念(ヤンニョン)の染み込んだ水原カルビを食べれば、旅の疲れなど一気に吹き飛ぶ。

それにしても、韓国の史跡を旅していてつくづく感じるのは、この民族の生命力の強さである。

豊臣秀吉の朝鮮出兵や、それに続く清の攻撃を受けて、壊滅的な打撃や耐えがたい屈辱を受けながらも、朝鮮王朝はその歴史をつなぎ、華城のような、世界的に評価される建造物も築いている。

考えてみれば、豊臣秀吉の朝鮮出兵の後、出兵による後遺症もあって豊臣政権は崩壊し、徳川政権へと移行している。

また、朝鮮に援軍を出した明も、それからしばらくして、清によって滅ぼされている。

しかしながら、最も大きな被害に遭い、壊滅的な打撃を受けた朝鮮だけは、王朝を維持し続けた。これは、特筆すべきことである。

屈辱の歴史を物語る三田渡碑は、ソウルオリンピック以後開発が進んだ石村洞の建物の谷間にひっそりと、目立たずに立っている。

しかし、後世への教訓と言う意味もあって保存されている三田渡碑は、この民族の生命力の強さを物語る碑であるとも言える。

文・写真=大島 裕史

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