朝鮮王朝を舞台にした時代劇によく登場するのが粛宗(スクチョン)と張禧嬪(チャン・ヒビン)である。
実際、『トンイ』の主人公は淑嬪・崔氏(スクピン・チェシ)なのだが、同じように重要なキャラクターだったのが粛宗と張禧嬪だった。その2人の関係を物語る逸話を紹介しよう。
粛宗の側室だった張禧嬪が王子を産んだのは、1688年10月のことだった。
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粛宗は本当に喜んだ。30歳近くになってようやく息子を授かったからだ。
粛宗はすぐに息子を「元子(ウォンジャ)」にしようとした。王の後継者は世子(セジャ)だが、その世子の第一候補が元子だ。
このとき、粛宗の正妻の仁顕(イニョン)王后は21歳で、もちろん、これから子供を産む可能性があった。それゆえ、重臣たちは元子の指名に反対した。
粛宗は納得しなかった。こうして、王と重臣が対立した。
粛宗は強い口調で言った。
「余はもうすぐ30になるのだ。後継ぎがいないので本当に心配したのだが、ようやく王子が生まれた。それなのに、元子に決めるのが早すぎるとは、どういうことだ」
粛宗が声を荒げても、重臣たちは冷静だった。
「時間をかけて議論して決めたら、いかがでしょうか」
このように重臣たちは粛宗に慎重さを求めた。
しかし、粛宗はますます興奮してきてしまった。
そのうえで、「すでに余が決めたことだ。これで話は終わる」と一方的に議論を打ち切ってしまった。
結局、張禧嬪が産んだ王子は「元子」となり、世子になる筆頭候補になった。
この王子が、後の20代王の景宗(キョンジョン)である。
振り返ってみれば、仁顕王后には子供ができなかったので、景宗が粛宗の長男として後継者の立場が安泰だったのだ。
それだけではなかった。張禧嬪は王子を産んだ翌年に側室から王妃まで昇格した。まさにシンデレラである。
その反対に、仁顕王后は廃妃となり実家に帰されてしまった。
本当に対照的だった。
張禧嬪は、粛宗の長男を産んだおかげで、我が世の春を謳歌した。
しかし、王妃でいられたのは、わずか5年だったのだが……。
文=康 熙奉(カン ヒボン)
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