【深発見10】攘夷の朝鮮王朝とフランスの衝突から145年目の“返還”

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龍興宮から少し歩くと、高麗宮址に着く。この地に高麗宮があったのは、40年足らずの期間であったが、高麗王朝の王都・開城が今は北朝鮮である以上、韓国内に存在する唯一の高麗宮ということになる。

それだけでも、歴史の好奇心をそそられるが、さらにこの地は、朝鮮王朝時代、王の行宮の地として、重要な役割を担っていた。通常王はソウルにいるため、その間は「留守府」として、この地方の行政官庁でもあった。

1592年、豊臣秀吉の朝鮮出兵でソウルが陥落するや、王太子であった光海君(クァンヘグン)はこの地に分朝を置き、反撃の足掛かりを築いた。

さらに1627年、後金が侵攻してきた時に第16代国王・仁祖(インジョ)は、江華島に避難して抗戦した。

【王朝の闇】「悲劇の王」とされる仁祖インジョが重ねた悪政の数々

後金とは一旦和議が結ばれたが、1636年、清と国号を定め再び朝鮮に侵攻するや、真っ先に江華島を攻め、留守府などを破壊した。

そのため仁祖は江華島に避難できず、ソウルの南の南漢山城(ナムハンサンソン)での籠城を強いられ、降伏せざるを得なかった。

私が行った時は、留守府の東軒など一部が再建築されているだけで、敷地の多くは、土地を整備している最中といった感じだが、この地で起きた歴史的事件の激しさには、無言の迫力がある。

空き地が広がる西側の敷地には、正面に「外奎章閣(ウェギュジャンガク)」と書かれた額が掲げられている、新しい建物がある。この建物自体は2003年に再建されたものだが、元は正祖の時代の1782年、王立の書庫として建てられたものだ。

外奎章閣(写真=大島 裕史)

哲宗の時代、正祖の弟・恩信君(ウンシングン)の孫である李昰応(イ・ハウン)は、安東金氏らを欺くため、奇人のふりまでしたと言われている。そして次男が12歳で王位に就くと、後見人(大院君[テウォングン])として実権を握った。大院君・高宗(コジョン)体制の始まりである。

大院君は、王宮である景福宮(キョンボックン)の再建など王権の確立に力を注ぐ一方で、対外的には、徹底した攘夷政策をとった。

その一環として、当時広まりつつあったキリスト教の信者約8000人と、フランス人の神父9人を処刑した。この時、難を逃れたフランス人神父の求めに応じる形で、1866年、7隻のフランス艦船が、600人の兵士を動員して江華島を攻撃。フランス人殺害に対する賠償と通商を要求した。

攘夷の意志が固い朝鮮王朝は、官民一体となって抗戦し、フランス軍を撃退した。

しかしこの戦いで江華島に上陸したフランス兵は、略奪行為を行い、外奎章閣の書物も奪われた。

略奪された書物は、フランス国立図書館が所有していた。書籍の返還問題は、韓国とフランスの間の、長期に渡る懸案であった。

1993年、ミッテラン大統領が訪韓した際、金泳三(キム・ヨンサム)大統領に返還を約束していたが、約束は守られなかった。その後、紆余曲折を経て、2011年に貸与という形式で書物は、韓国に戻っている。

文・写真=大島 裕史
 

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