歴史事件で巡る王宮探訪1/中宗がチャングムの治療を受けた歓慶殿はどんな様子だったか

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傑作『宮廷女官チャングムの誓い』でイ・ヨンエが演じたチャングム(長今)は、実在した医女である。16世紀前半の朝鮮王朝に実在しており、王宮で勤める医女として11代王・中宗(チュンジョン)の治療を担当していた。

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その中宗が体調を悪化させたのは1544年10月29日だった。彼は高温を発し、胸が苦しくなった。チャングムも必死に治療にあたったが、主治医ではなかった。

当時、主治医は男性の医官が務めており、『朝鮮王朝実録』の記述によると、朴世挙(パク・セゴ)、洪沈(ホン・チム)、柳之蕃(ユ・ジボン)の3人だった。医女が主治医になれないのが、身分差別が強かった朝鮮王朝のしきたりだった。 

中宗は11月14日に昏睡状態に陥り、11月15日に危篤となった。『朝鮮王朝実録』では「危篤で話すこともできず、脈も微弱であった。そばに誰がいるのかもわからない状態だ」と記されている。

そのとき、中宗がいたのは、昌慶宮(チャンギョングン)の歓慶殿(ファンギョンジョン)であった。当時、朝鮮王朝の正宮として景福宮(キョンボックン)が立派な施設を整備していたが、王族の年長者たちは落ちついて暮らせる離宮を好む傾向があり、体調がよくなかった中宗も歓慶殿に留まっていた。

歓慶殿
昌慶宮にある歓慶殿

王族の年長者たちが落ち着いて暮らす建物

昌慶宮を造ったのは4代王・世宗(セジョン)である。彼はこの離宮を3代王・太宗(テジョン)のために造り、以後も王族の人たちに使われていた。その中でも、特に落ち着いた建物が歓慶殿だった。

この歓慶殿にいた中宗が危篤になり、重臣たちの心配が大きくなった。もし中宗が亡くなると、性格の悪い文定(ムンジョン)王后が政治的な主導権を取る可能性が高かった。それは、間違いなく大きな事件であった。

そして、中宗は11月15日の酉の刻(午後5時から7時の間)に亡くなった。そばで見守っていたチャングムも断腸の思いだったことだろう。歓慶殿では、側近たちの号泣がなりやまなかった。それは、希代の悪女の登場を嘆く声でもあった。

文=康 熙奉(カン・ヒボン)

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