チョン・イルが主役となった『ヘチ 王座への道』は若き日の21代王・英祖(ヨンジョ)を描いているが、後年の彼にはどんな子供たちがいたのだろうか。
英祖には2人の王妃がいたが、ともに子供を産んでいない。よって、英祖の子供は側室から生まれている。
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長男の孝章(ヒョジャン)は、側室の靖嬪(チョンビン)・李(イ)氏から生まれているが、1728年に9歳で病死してしまった。そして、靖嬪・李氏は英祖の長女の和順(ファスン)も出産している。
一方、1735年に側室の映嬪(ヨンビン)・李(イ)氏が思悼世子(サドセジャ)を産んでいる。さらに、映嬪・李氏は3人の娘を産んだ。和平(ファピョン)、和協(ファヒョプ)、和緩(ファワン)である。
この中で、英祖は和平を溺愛していたが、20歳を過ぎてから急死してしまった。
さらに悲劇が続き、和協が4年後に世を去った。悲嘆した英祖だったが、和緩をいっそう可愛がるようになった。
和緩は1737年に生まれていて、1752年に結婚した。そして、19歳のときに娘を産んだが、5か月で亡くなってしまう。その直後には夫も急逝した。和緩は10代で娘と夫を失ったのだ。
不幸はさらに続く。英祖の最初の王妃が亡くなり、続いて長女の和順も短い生涯を終えた。
こうして、英祖には、思悼世子と和緩だけが残ることになった。
英祖は息子と娘を心から愛したが、残念ながら思悼世子との親子関係が悪化してしまった。最後には1762年に思悼世子が米びつの中で餓死するという痛ましい事件も起こった。
さらに、英祖があれほど愛した和緩であったが、思悼世子と不仲であったことから餓死事件にも間接的に関与していたことが明らかになって、イ・サンこと正祖(チョンジョ)によって処罰されている。それは、ドラマ『イ・サン』にも描かれていた部分だった。
英祖は82歳まで生きて27人の国王の中で一番長寿だったが、家族はことごとく短命だったり不幸に見舞われたと言わざるをえない。
文=康 熙奉(カン・ヒボン)
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