朝鮮半島の偉人としてあまりに有名な許浚(ホ・ジュン)は、時代劇でも『ホジュン 宮廷医官への道』や『ホジュン 伝説の心医』で主人公として描かれている。彼は有名な医学書を書いた名医としても知られているが、どんな人生を歩んだのだろうか。
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許浚は1546年に名門の家に生まれた。しかし、庶子だったので冷たい扱いを受けて、重要な官職に就くことができなかった。それでも、許浚は「自分の力を生かせる仕事がしたい」と考えて、山中で生活していた名医のもとで医学を学んだ。ここで素晴らしい才能を開花させた。
29歳で医官の試験に合格。よほど優秀だったようで、わずか1年という異例の速さで当時の王である宣祖(ソンジョ)の主治医となった。
宣祖の時代には豊臣軍による朝鮮出兵が起こり、多くの死者や重傷者が出た。許浚はその惨状を見て、優れた医学書の必要性を実感した。宣祖も「中国から医学書は入ってくるが、我が民族に合った医学書がない」と痛感しており、彼は許浚に医学書の執筆を命じた。
こうして許浚は医学書「東医宝鑑(トンイポグァン)」の作成に取り掛かった。しかし、1608年に宣祖が亡くなってしまう。当時、王が亡くなると主治医が責任を取らされた。偉大な許浚も例外ではない。彼は死罪となることはなんとか免れたが、流罪となってしまった。
仕方なく、許浚は失意の日々を過ごしていた。そんな彼に救いの手を差し伸べたのが、宣祖の後を継いだ15代王・光海君(クァンヘグン)だった。許浚の偉大さを知っていた彼は、許浚を宮廷に呼び戻した。こうして許浚は、再び研究と執筆に励むようになり、1610年に「東医宝鑑」を完成させた。1613年に本として出版された「東医宝鑑」は、全国の医療院に次々と配られ、朝鮮半島の医療技術を飛躍的に向上させた。
さらに庶民でも読むことができるようにハングル版も完成させた許浚。偉大な業績を残した彼は惜しまれながら1615年に世を去った。
文=康 熙奉(カン・ヒボン)
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