〔朝鮮王朝の5大強烈王妃〕国王以上に目立っていた個性派の王妃は誰なのか

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朝鮮王朝の王族女性たちは、絢爛たる宮殿の中にひっそりと佇み、控えめに過ごすことが多かった。特に王妃は、国王の影に身をひそめることが「品格」とされていた。そんな静寂を打ち破るように、烈火のごとき情熱と鋼の意志を持ち、自らの存在を強く刻み込んだ王妃たちもいた。ここでは、特に鮮烈な光を放った5人の王妃を紹介する。

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元敬(ウォンギョン)王后〔1365~1420年〕

3代王・太宗(テジョン)の正室。1398年、夫が王位を賭けてクーデターを起こしたその夜、敵の奇襲を誰よりも早く察知し、夫に知らせた。しかも、ただ知らせるだけでなく、武器の準備までも手配していたという。

まるで嵐の前の静けさを見通したかのように、命運を握る瞬間を制した。彼女なくして太宗の即位はなかったとまで言われている。後年、夫婦仲が冷え込み、彼女の親族が粛清された。それでも彼女は屈することなく、国王に毅然と立ち向かい、最後まで誇り高き精神を貫いた。

貞熹(チョンヒ)王后〔1418~1483年〕

7代王・世祖(セジョ)の正室。1453年、夫が政変を決意したとき、恐れを抱いた夫を鼓舞し、奮い立たせた。まるで戦場の軍師のように、精神の支柱となったのである。夫の即位後は、王妃として絶大な権力を手にし、夫の死後も国政を掌握し続けた。その統治は冷静かつ緻密で、王朝の安定に寄与した。

『哲仁王后~俺がクイーン⁉~』
『哲仁王后~俺がクイーン⁉~』でペ・ジョンオクが扮した純元王后(写真=©STUDIO DRAGON CORPORATION)

明聖(ミョンソン)王后〔1642~1683年〕

18代王・顕宗(ヒョンジョン)の正室。気性が激しく、国王といえども彼女の言葉に怯えたという。顕宗は彼女の嫉妬を恐れて側室を持たなかったほどで、その姿はまるで国王を手のひらで転がす嵐の女王のようであった。顕宗の死後は、公式の政務会議にも堂々と顔を出し、勝手気ままな発言をして重臣たちを困惑させたという逸話が残る。

貞純(チョンスン)王后〔1745~1805年〕

21代王・英祖(ヨンジョ)の継妃。冷徹な策略家であり、英祖の実子である思悼(サド)世子が米びつに閉じ込められて非業の死を遂げた事件の背後には、彼女の影があったと言われている。さらに、思悼世子の子である正祖(チョンジョ)が亡くなると、代理摂政の立場で政治に介入し、キリスト教徒の大弾圧を指示した。

純元(スヌォン)王后〔1789~1857年〕

23代王・純祖(スンジョ)の正室。気の弱い夫を見透かし、自らの実家である安東・金氏(アンドン・キムシ)の一族を重用して政権を独占した。この状況は「勢道(セド)政治」と呼ばれ、王室よりも外戚が強い力を握る異様な時代となった。彼女は後継者の選定にも関与し、死ぬまで勢道政治を維持した。その代償として、腐敗や賄賂が横行し、民衆の信頼は遠ざかっていった。

文=康 熙奉(カン・ヒボン)

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