『トンイ』の序盤を見ていると、明聖(ミョンソン)王后が国王の母として絶対的な権力者に描かれている。実際はどのような女性だったのだろうか。
明聖王后は1642年に都の漢陽(ハニャン/現在のソウル)で生まれた。父の金佑明(キム・ウミョン)は科挙に合格して官吏となった人だった。
明聖王后が9 歳だった1651年、17代王・孝宗(ヒョジョン)の長男が世子になったが、数多い候補の中から彼女が世子嬪に選ばれた。
1659年、世子は18代王・顕宗(ヒョンジョン)として即位した。明聖王后は17歳で名実ともに王妃となった。
ただし、明聖王后の場合、頭痛の種になっていたのが、姑の仁宣(インソン)大妃だった。
仁宣大妃は、嫁の明聖王后から見れば本当に口うるさい姑だった。いつも文句ばかり言われて閉口した明聖王后は、やっかいな姑が生きているかぎり、気が休まるときはなかった。
そんな鬱屈した日々の中で、明聖王后はようやく懐妊した。嫡男誕生の期待も高まり、王妃の存在感が一気に増した。
明聖王后は胎教に専念した。朝鮮半島では昔から胎教を重視していて、王妃ともなればなおさらだった。
大切なのは、身と心を清く保つことだった。王妃はからだを清潔に保ち、見苦しいものを見ないように心掛けた。
そして、明聖王后は1661年に長男を出産した。後の19代王・粛宗(スクチョン)である。
明聖王后の立場は磐石になったが、彼女は何ごとにもでしゃばらず謙虚に暮らした。仁宣大妃の横やりを恐れたからだ。
「この子が世子になるまでは、どんな波風も立てたくない」
明聖王后は我が子が王になるためなら、どんな我慢もいとわなかった。
顕宗と明聖王后は、一人の息子と三人の娘に恵まれた。この当時は、朝鮮王朝がいつも悩まされた異民族の侵攻がなく、内政面でも社会が安定していた。いわば、平和な時代だったのである。
顕宗と明聖王后は、朝鮮王朝時代の王と王妃の慣例にしたがって、寝室が別で生活空間がまったく離れていたが、心は通い合っていた。
1674年、仁宣大妃が世を去った。もはや明聖王后に歯向かえる人はいなかった。ただ、夫まで姑の後を追うようにすぐ亡くなったのは衝撃だった。
この急死にともない、長男が13歳で粛宗として即位した。明聖王后は王の母とはいっても、まだ32歳という若さだった。
大妃となったことで、今まで抑えてきた感情が一気に噴き出した。女性の立ち入りを禁止されていた政庁にまで出掛けて閣議に口を出し、大臣たちから猛烈な抗議を受けたこともあった。
そんな明聖王后が後に執念を燃やしたのが、息子の粛宗が寵愛する張禧嬪(チャン・ヒビン)を追い落とすことだった。
それは、ドラマ『トンイ』で描かれたとおりだった。
文=康 熙奉(カン・ヒボン)
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