【なるほど歴史解説】『太宗 イ・バンウォン』の李成桂は高麗の王家をどう滅ぼしたのか

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テレビ東京の韓流プレミアで4月22日に放送された『太宗 イ・バンウォン~龍の国~』の第12話では、李成桂(イ・ソンゲ)が1392年に新しい王朝を作ったにもかかわらず、滅ぼした高麗王朝の影響が色濃く残っている状況が描写されていた。 

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かつての高麗王朝は朝鮮半島中部の開京(ケギョン)を都にしており、新しい王朝もそのまま王宮を引き継いでいた。しかし、開京という町は高麗王朝の残滓(ざんし)が染み込んでいて、何かにつけて高麗王朝を慕う民衆も多かった。実際、李成桂は高麗王朝に反逆する形で新しい王朝を開いたので、それに反発する人もいたのだ。

そこで李成桂は徹底的に高麗王朝の影響をなくしてしまおうと考えた。そこで彼が指示したのが、高麗王朝の王家である王氏(ワンシ)を滅ぼすことであった。そのやり方がとても強引だった。まず李成桂は全土に告示して王氏一族を集めて「一つの島を与えるから安楽に暮らせ」と指示を出した。

こうして王氏が集められたのだが、島に行く途上で意図的に船を沈没させて乗船していた人たちを溺死させてしまった。ここまでして王氏一族の殲滅(せんめつ)を図った李成桂は、あまりにも非道であったと言わざるを得ない。

そういう李成桂の企みを察知してあえて船に乗らなかった人たちも多かった。彼らは山に隠れてひっそりと暮らすようになった。その時に王氏という名前を使えないので、あえて漢字が似ている全(チョン)、田(チョン)、玉(オク)などに改名してその伝統を守ったと言われている。

太宗イ・バンウォン~龍の国~
(画像=KBS)

高麗王朝の影響

あるいは、父の姓ではなく母の姓を名乗るようにして一族を守り抜いたという話も伝わっている。このように、李成桂がいくら王氏を殲滅させようとしても、それに抵抗した人たちが脈々と歴史をつないでいったのだ。

また、開京をそのまま都にしておくとあまりにも高麗王朝の影響が強すぎるということで、李成桂は本格的に遷都を考え始めて行動に移している。その様子は今後の『太宗 イ・バンウォン~龍の国~』で詳細に描かれていくだろう。

文=康 熙奉(カン・ヒボン)

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