【歴史コラム】イ・サンはなぜ水原への遷都にこだわったのか

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22代王のイ・サンは統治の後半になって、老論派の厳しい反対の波を乗り越え、楊州(ヤンジュ)にあった父親・思悼世子(サドセジャ)の墓の移転を決意した。選ばれた新たな場所は、地元の人々が「花が盛んに咲き乱れる地」と讃えた水原(スウォン/都から南25キロ)であった。そこは、風水の観点からも陵墓に最も適していたのである。

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早急に思悼世子の陵墓は水原へと移され、そこは顕隆園(ヒョンニュンウォン)と名付けられた。この名前には、イ・サンの「父に隆盛で報いる」という深い想いが込められていた。

イ・サンは困難に満ちた日々を乗り越えて国王となったが、業績を挙げて名君の道を歩むと、父への深い愛情が年月とともに一層強固となった。

本当に親孝行の息子だった。国王として激務が続いていたのに、イ・サンは顕隆園を頻繁に訪れるようになった。その際、随行する人々や馬の数はとてつもなく大規模だ。最も多い時には、6000を超える人々と1400を超える馬がイ・サンの後に従った。その行列は、通りかかる人々に国王の威厳を強く印象づけた。

イ・サンはその威厳を保持することに陶酔感を感じていたかもしれない。何度も顕隆園を訪れる中で、彼は水原を大きな都市へと発展させる夢を抱くようになった。その実現のための第一歩として、現在も世界遺産に指定されている華城(ファソン)の建設が始まった。

画像=MBC

水原の都市整備

1794年2月にその建設は始まり、周囲6キロの壮麗な城郭は2年6カ月で完成した。実学者として著名な丁若鏞(チョン・ヤギョン)の発明した起重機(現代で言えばクレーン)は、その建設を劇的に進める役割を果たした。

しかし、この事業の経費はまさに天文学的となった。イ・サンが父への深い愛情から始めたことは、国の財政を大いに圧迫する結果を生んでしまったのだ。それでも、イ・サンは決して断念しなかった。彼は水原の都市整備を着実に進め、むしろ水原への遷都を決意するに至ったのである。こうなると、もう執念としか言いようがなかった。

文=康 熙奉(カン・ヒボン)

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