テレビ東京の韓流プレミアで放送されている『イ・サン』。8月23日の第71話においてイ・サン(イ・ソジン)が父の思悼世子(サドセジャ)の墓を移す決意が語られていた。その背景には何があったのか。史実を見てみよう。
1776年に即位したイ・サンの政治的業績は、数多く存在している。彼は身分制度の固定観念を打破し、下層階級の人々もその能力により高位に昇進する体制を創設した。また、彼は文学と芸術の再興に努め、その分野の全盛期をもたらした。さらに、生活に密着した実学を推奨し、多くの学者や技術者を養成して庶民の日常生活を質的に向上させた。
イ・サンのこれらの業績により、名声は不動のものとなった。しかし、今日の韓国における彼の尊敬の念は、業績をさらに上回るものがある。それは、イ・サンの模範的な親孝行の心が高く評価されているからだ。
彼は何よりも、無念の死を遂げた父・思悼世子(サドセジャ)の名誉を回復した。そして、在位13年目の1789年には、父に捧げる大規模な事業に取り組み始めた。それは、老論派の反対を押し切って実行された。
なんと、都の漢陽(ハニャン)の北にある楊州(ヤンジュ)に位置していた思悼世子の墓を、水原(スウォン/漢陽から南25キロの位置)の花山(ファサン)へと移転させる決断を下したのである。ここに移したのは、風水の観点から見て、最も適切な場所であったからだ。
思悼世子の陵墓は迅速に水原に移され、顕隆園(ヒョンニュンウォン)として立派に整備された。この名前には「顕父に隆盛で報いる」というイ・サンの深い感謝の意が込められていた(現在は隆健陵〔ユンゴンヌン〕として知られている)。
10歳の頃、父の悲劇的な死を目の当たりにしたイ・サンは、多くの試練を乗り越えて国王になった。さらに、父の名誉を回復するための道を歩んできたが、彼の父への愛情と尊敬の気持ちは高まる一方だった。その集大成が、陵墓の移転だったのである。
文=康 熙奉(カン・ヒボン)
■【関連】【歴史コラム】『イ・サン』で取り上げられた科挙はどのように行なわれたのか
前へ
次へ