朝鮮王朝では、国王の長男が適切な年齢になると、正式な後継者として「世子(セジャ)」に指名される。この場合、高官たちの要請によって候補者が世子にふさわしいことが強調されて、春の吉日を選んで国王は世子を選んだ。
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その際、朝鮮王朝の王室儀礼書である「国朝五礼儀」によって世子決定時の儀式の手順や備えるべき供物が決められていた。
こうして世子が正式に冊封されると、最初に服装が変わる。韓国時代劇でおなじみの七章服を着ることになるのだ。これは、七つの紋様が刺繍されている世子の正服であり、見た目で世子であることが一目瞭然となる。さらに、自分の官僚と護衛兵を率いていく。
何よりも、世子は新たな時代を象徴する春に我当するために「春宮(チュングン)」と呼ばれた。また、春は方角でいうと東にあたるので「東宮(トングン)」とも称された。実際、世子は王宮の中で東側に住んでいた。
一方、世子の帝王学教育も本格的に進んでいった。将来の国王を指導したのが世子侍講院で、ここを受け持つ官僚はみんな科挙(官僚採用試驗)に合格した秀才で家門もとても良かった。
このように、世子の教育を科挙出身のエリートに任せることによって、世子と官僚たちの人間的な付き合いも大いに深まっていった。
そして、帝王学では名君になるための教訓を授けられた。特に、朝鮮王朝が国教にしている儒教の教義をおさめることは必須だった。それゆえ、世子は儒教の教典を必死に勉強したのである。
なお、世子は早めに結婚する傾向があり、歴代の世子を見ていると、10歳くらいが結婚適齢期だった。この場合、世子嬪(セジャビン/世子の妻)は同年齢か1歳上がとても多かった。庶民は10代後半に結婚するのが普通だったのだが、世子夫婦の婚礼はとても早かったのである。
具体的に世子の結婚年齢を見てみると、粛宗(スクチョン)は9歳、イ・サン(世子でなく世孫だった)は10歳であった。彼らは世子として平均的な年齢で結婚していたと言える。
文=康 熙奉(カン・ヒボン)
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