1623年、仁祖(インジョ)が15代の王・光海君(クァンヘグン)の王位を奪い、その座についた瞬間、本当に彼は王としての運命を手にしたのであろうか。彼の即位は、多くの政治的な失敗に見舞われたからである。
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特に、彼の外交の舞台は成果がなかった。1627年、朝鮮半島の北方で勢力を強くした後金は、朝鮮王朝の大地を足踏みにした。光海君の治世、彼は後金と巧妙な外交を進めていた。だが仁祖は、後金を狼のような蛮族と軽蔑し、外交の失敗を繰り返してしまった。
後金の軍は猛獣のように強力で、朝鮮王朝は鳥が猛獣の前に逃げるように、仁祖は都の漢陽(ハニャン/現在のソウル)を離れ、江華島(カンファド)に逃げ込んだ。そして、後金の前に膝をつき、国の終焉を辛うじて避けた。しかしその胸の内では、約束の和平を守るという炎は消えており、彼は後金を卑下していた。
後金は怒りの炎を胸に、国号を「清」と新たに名乗り、1636年12月、大地を震わせるような10万を超える大軍で攻めてきた。仁祖は再び江華島に逃げようとしたが、清の大軍はすでに門前に迫っていた。彼は南側の南漢山城(ナマンサンソン)に籠もるしかなかった。
その城内では、高官たちの間で抗戦か降伏かという論議が飛び交った。結局、朝鮮王朝の運命は降伏に帰結したのである。
仁祖は1637年1月、漢江(ハンガン)の岸辺で、清の皇帝に頭を下げ、額に地をつけて謝罪した。そのとき、彼の額から血がにじんだ。そのような決意をもっていなければ、朝鮮王朝は清の怒りにより滅びていたであろう。
この屈辱は、朝鮮王朝の歴史において最も重い鎖であった。もし仁祖がその野望を抑え、光海君が治世を続けていれば、朝鮮王朝はもっと安定していたはずである。
だが、時は残酷で、朝鮮王朝は清から重い賠償金を取られ、その後も清の影に怯え続けた。それは本当に辛い日々であった。
国を導く資格のない王……それが仁祖であり、彼が王として失格の烙印を押されるのも仕方がないことだった。
文=康 熙奉(カン・ヒボン)
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