【イ・サンの復讐】即位した瞬間に彼は何をやり遂げたのか

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2021年に韓国で放送された時代劇を見ていくと、一番人気を集めたのがMBCの『袖先赤いクットン』(原題)だった。終盤に向けてドラマの注目度は頂点に達し、主演した2PMのジュノは、12月30日に発表されたMBC演技大賞でも最優秀演技賞を受けて絶賛を浴びている。

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そんなジュノは、扮したイ・サンが世孫(セソン/国王の正式な後継者となる孫)から立派な国王になっていく過程を凛々しく演じた。

こうしてイ・サンは正祖(チョンジョ)として名君になっていくのだが、ここで特に注目したいのが、イ・サンが即位した瞬間に語った第一声である。そこには、イ・サンの積年の思いが露骨に現れていたからだ。

果たして、そのときイ・サンは何と言ったのだろうか。

イ・サンの祖父で21代王であった英祖(ヨンジョ)が亡くなったのは1776年3月5日だ。すでにイ・サンは国王の正式な後継者に決まっており、彼は朝鮮王朝のしきたりに従って22代王となった。

(写真提供=MBC)

積年の復讐を遂げた

即位式が行なわれたのは3月10日であった。

イ・サンは重臣たちを謁見(えっけん)した席で注目の第一声を発した。

「嗚呼(ああ)! 寡人(かじん)は思悼世子(サドセジャ)の息子である」

この場合の「寡人」というのは、当時の国王が自らを呼ぶときの言葉だった。重要なのは、あえて第一声で「思悼世子の息子」を強調したことだ。この言葉の重みを重臣たちの誰もがわかっていた。

実は、思悼世子は父親の英祖から世子の身分を剥奪されて米びつの中で餓死している。いわば、罪人として死んだのだ。

そんな思悼世子の息子のままでいると、イ・サンも「世孫」の地位を失ってしまう。そこで、彼は孝章世子(ヒョジャンセジャ)の養子となって世孫の地位を守り抜いた。この孝章世子というのは、英祖の長男で思悼世子の兄であった。9歳で病死していたのだが、立場上はイ・サンもこの伯父の息子となっていたのである。

つまり、1776年にイ・サンは孝章世子の息子として即位したと誰もが思っていた……しかし、当のイ・サンはそうではなかった。形式的にはどうであれ、「自分は思悼世子の息子として即位したのだ」という強い気持ちを持っていた。

それだけに、即位の第一声は父の思悼世子を心から慕っていることを改めて示す言葉だった。同時に、もう一つの意味があった。それは、思悼世子を陥れて餓死に追い込んだ重臣たちの一部を絶対に許さないという意思表示だった。

実際、即位後に思悼世子の死に関係していた人の多くが厳しく処罰されている。イ・サンはそれほど父の死を無念だったと悲しんでいて、自分が国王になったときに真っ先に積年の復讐を遂げたのであった。

文=康 熙奉(カン・ヒボン)

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