朝鮮王朝では国王が一番の権力者だ。それより恐い存在はないはずであった……が、実はそんな国王をビビらせた恐い人がいた。それが3人の恐妻だ。
最初に紹介するのは神懿(シンイ)王后だ。
彼女は後に朝鮮王朝の初代王となる李成桂(イ・ソンゲ)の糟糠の妻であった。
夫を常に叱咤激励し、李成桂が武将として大出世する際に内助の功を発揮した。そんな妻に李成桂は完全に尻に敷かれていた。それもそうだろう。神懿王后は6人の息子を産んで立派に育て上げ、都に出てしまった夫に代わって故郷で家をしっかり守っていた。
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そんな神懿王后が亡くなったのは1391年のことだ。その翌年に李成桂が朝鮮王朝を建国して初代王になった。
つまり、神懿王后は自分が生きている間は王朝の誕生を見ていないのだ。しかし、彼女は追尊されて初代王妃の称号を得た。そして、夫だけでなく息子2人を国王にさせたのであった。
2人目の恐妻は、7代王・世祖(セジョ)の正妻だった貞熹(チョンヒ)王后である。
彼女は夫より気が強かった。なにしろ、夫が王位を狙って政変を起こしたとき、臆病風に吹かれそうになると、あえて夫に鎧を着せて気合で送り出した。
政変が成功して夫が王になった後も、貞熹王后は強気な性格で夫にあれこれと指図をした。まさに女帝の貫禄。彼女は歴史に残る恐妻であった。
3人目に取り上げるのは、9代王・成宗(ソンジョン)の正室だった尹(ユン)氏である。
彼女は、自分が側室から王妃になったのに、成宗が寵愛する側室を憎悪して、呪い殺そうとした。それによって成宗から一時は疎まれたが、時間が過ぎてから許された。それだけに成宗に感謝してもいいのに、こともあろうに、今度は成宗の顔を激しく引っかきまわしてしまった。恐れ多くも国王が顔を爪で激しく引っかけられたのは前代未聞の事件だった。
いくら恐妻であっても、国王に危害を加えてはいけない。結局、尹氏は廃妃となった後に死罪となってしまった。
以上の3人が42人いた王妃の中で一番の「恐妻」たちであった。
文=康 熙奉(カン ヒボン)
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