【悲劇の幼き王】端宗ほど哀しみを背負った国王は他にいない

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史上最高の名君と称賛された世宗(セジョン)が1450年に亡くなったあと、国王を引き継いだのは長男の文宗(ムンジョン)だった。

彼は父親に似てとても聡明で、長く国王を務めたら名君になるのは間違いなかった。しかし、病弱だったために、即位からわずか2年で世を去った。これが悲劇の端緒となった。

文宗の長男であった端宗(タンジョン)が即位したが、わずか11歳だった。

この端宗が不運だったのは、母も祖母も他界していたことだ。もしも王族女性の長老が生きていたら、未成年の国王のために摂政を任せることができた。そうやって代理政治を行なったうえで成人すれば、端宗も無事に国王として親政を始めることができたであろう。

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しかし、王族女性の長老がいなかったので、未成年の端宗の後見人は高官の金宗瑞(キム・ジョンソ)が引き受けた。彼は「虎」と称されるほど勇猛果敢な忠臣であったが、隠居間近の高齢となっていて、端宗を守り切るには不安があった。

江原道寧越郡によって2021年に完成した端宗の御仁(写真=江原道寧越郡)

あまりにひどい処遇

そこを突いてきたのが首陽大君(スヤンデグン)であった。彼は世宗の二男であり、文宗の弟だった。つまり、端宗の叔父である。

彼は野心的な男で、王位に執着した。そのあげく、1453年に金宗瑞を殺して一気に実権を握った。

すべての権力を手中におさめた首陽大君は、1455年には端宗を極端に脅して王位を奪い、すかさず世祖(セジョ)として即位した。
端宗は上王として遇されたが、それは形だけだった。

彼はさんざん卑下されたうえに、最後には魯山君(ノサングン)となって位階を下げられ、寧月(ヨンウォネ)という僻地に配流されてしまった。

それは、かつて国王であった人に対して、あまりにひどい処遇だった。

こうして端宗は叔父の世祖から悲惨な扱いを受けた末に、1457年に死罪となってしまった。

享年16歳。あまりに短く悲しい人生だった。

彼の妻は廃妃となった定順(チョンスン)王妃だが、彼女は1521年まで生きて81歳で亡くなった。妻が長生きしてくれたことが、短命で終わった少年国王の端宗にとって、唯一の救いだったかもしれない。

文=康 熙奉

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