歴史書を読むとわかる!善徳女王は「善」と「徳」の国王だった

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イ・ヨウォンが主演した『善徳女王』は本当に面白い時代劇だった。このドラマのおかげで、善徳女王の存在が広く知られるようになった。

彼女は古代国家の新羅(シルラ)の27代王だが、新羅は朝鮮王朝のように男尊女卑の風潮が強くなく、歴史上で3人の女王が出ている。その中で最初に女王になったのが善徳女王であった。ちなみに、新羅以外の国からは女王は出ていない。

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歴史をたどっていくと、善徳女王が国王になったのは632年だった。

の当時の新羅は、高句麗(コグリョ)と百済(ペクチェ)と激しい領土争いを繰り広げていて、善徳女王は中国大陸を支配していた唐の支援を受けようとして、盛んに朝貢を行なっている。結果的に、唐の協力を得られたことで、新羅は百済と高句麗を滅ぼすことができた。

そして、朝鮮半島で最初の統一国家を築いたのだが、そういう成果をもたらした功労者として善徳女王は歴史に名を残している。

ドラマ『善徳女王』ではイ・ヨウォンが善徳女王を演じた(MBC 2009 All Right Reserved.)

名前にふさわしい女王

彼女の人物像は、朝鮮半島で最古の歴史書と言われる『三国史記』に詳しく書かれている。それを読むと、唐の協力を得るために善徳女王がいかに苦労したかがよくわかる。彼女はまさに信念の人であった。

さらに、注目したいのは善政を行なっていることだ。

たとえば、『三国史記』には632年の出来事として、国王が使者を派遣して「妻を亡くした夫」「寡婦」「孤児」「子供がいない老人」「生活に困窮している人」を慰問して物品を与えて救った、ということが書かれている。

新羅がまだ国難の時期であったにもかかわらず、善徳女王は民衆のために様々に尽力していた。

他の国王の治世を見ても、民衆の生活を支援したという話はあまり『三国史記』に出てこない。それだけに、善徳女王の善政がとても目立つのである。

彼女は647年に亡くなってから、尊号として「善徳」という名前を贈られた。まさに名前にふさわしい女王であった。

文=康 熙奉(カン・ヒボン)

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