善徳女王(ソンドクヨワン)…戦乱の世に君臨した朝鮮半島初の女王の生涯

2020年05月25日 歴史 #歴史人物
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善徳女王(ソンドクヨワン)は朝鮮半島初の女王であり、新羅(シルラ)の歴史を語るうえで欠かせない存在だ。

新羅26代王・真平王(チンピョンワン)と摩耶(マヤ)夫人の間に生まれた善徳女王は、幼名を徳曼(トンマン)と名付けられた。ドラマでも同じように呼ばれているため、ご存じの方も多いだろう。

父・真平王には息子がいなかった。そのため、娘のひとり天明の婿・龍樹(ヨンス)に王位を継承しようと考えていた。しかし徳曼は時折、予知能力を発揮するように。

娘に王の素質を感じた真平王は、彼女を後継者に擁立する。632年。徳曼は新羅第27代王となるのだった。

善徳女王は、生涯、外敵の侵攻に悩まされ続けた。即位後まもなく、636年には百済(ペクチェ)の兵士が新羅に侵攻。638年には強国・高句麗(コグリョ)に七重(チルジュン)城を攻撃されている。 

韓国・慶州にある善徳女王の墓(写真=韓国観光公社)

即位早々から外敵の脅威にさらされ続けた善徳女王は、大国であった中国・唐(とう)と連携を深める。新羅の王族を唐に留学させたり、仏教を通じた文化交流を頻繁に行なうなど、人的、文化的、政治的な連帯を強めようとしたのだ。

女性と罵られながらも、国を守り続けた生涯

一方で唐皇帝・高宗(コジョン)は、善徳女王との関係を軽んじていた。大国に依存するしかない小国のジレンマがそこにあった。642年に高句麗と百済が手を結び、本格的に侵攻をはじめる。

善徳女王は唐に援軍を派遣するように嘆願。しかし高宗はこれを拒否し、新羅を見捨てる。善徳女王が権力を握っていた新羅王朝の内部からは「女が王だから隣国に軽くみられるのだ」と言い放つ者も出た。日々、危機が迫る王朝では親唐派と反唐派の対立が深刻化していく。

やがて毗曇(ピダム)という人物が、善徳女王の廃位を求めて反乱を起こす。その渦中の647年、善徳女王はこの世を去る。ちなみに彼女が最後まで貫いた親唐路線は、その後も継承された。新羅と唐の連合軍は、660年に百済を、666年に高句麗を滅亡させた。

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