【深発見17】仁祖はなぜ南漢山城での籠城に失敗して降伏したのか

このエントリーをはてなブックマークに追加

ソウルの中心に立つ南山(ナムサン)の山頂には烽火(のろし)台がある。そして南漢山城の西門近くにも烽火台がある。

朝鮮王朝の時代、電信電話といった通信手段はもちろんないが、山から山へと、緊急の情報は、烽火を通して意外と早く伝わっていたようだ。

ソウル市内を一望できる場所からまたしばらく歩くと、南漢山城で最も有名な建物である守御将台(ソオジャンデ)に着く。

守御将台(ソオジャンデ)

 

2層式のこの建物は、王や将軍が将兵を指揮する場所である。

韓国独特の鮮やかな丹青で彩られた建物であるが、1層の柱の根元は、石で太く頑丈に固められており、建築美の中にも、戦いのための建物と言う武骨さがある。

 

このように、山々に沿ってしっかりと張り巡らされた城壁、武骨かつ頑丈に作られた門や建物。そして城壁内の広い平地。

これほど籠城に適した条件を備えていながら、仁祖(インジョ)はなぜ、清の猛攻の前にあっさりと白旗を上げたのだろうか。

清の攻撃が切迫していることを察した仁祖は、もしもの時は四方を海に囲まれた江華島に避難するつもりで、食糧などを運んでいた。

しかし丁卯胡乱の時がそうであったように、国王が江華島に避難することを読んでいた清は、丙子胡乱の時は、一早く王宮から江華島につながる道を押さえて、仁祖が江華島に避難できないようにした。

【関連】『トンイ』の時代の朝鮮王朝と清国の関係は?始まりは「丙子胡乱」と「三田渡の盟約」

そのため仁祖は慌てて南漢山城に方向転換したわけであったが、準備があまりされていなかった。

山城の周囲を清軍によって包囲されると、たちまち食糧が底をつき、降伏さざるを得なくなったのであった。

このように、清に対して屈辱的な臣下の礼をとらされた朝鮮王朝であるが、その一方で北方民族が支配する清を「オランケ」として蔑み)、自らは、明の「大中華」に対して、「小中華」であると自認し、党争を続けながらも、儒教を中心とした独自の文化を築いていった。

文・写真=大島 裕史

【写真】『チャングム』のハン尚宮ヤン・ミギョン、「奇跡の59歳」と言える美しさ!!

【写真】『チャングム』親友ヨンセン、双子のバツイチ母になっていた…女優パク・ウネの現在

【写真】『チャングム』の「美しき悪女」キョン・ミリ、娘は芸能界で活躍中

前へ

1 / 1

次へ

関連記事


RANKINGアクセスランキング

写真


注目記事