ソウルの中心に立つ南山(ナムサン)の山頂には烽火(のろし)台がある。そして南漢山城の西門近くにも烽火台がある。
朝鮮王朝の時代、電信電話といった通信手段はもちろんないが、山から山へと、緊急の情報は、烽火を通して意外と早く伝わっていたようだ。
ソウル市内を一望できる場所からまたしばらく歩くと、南漢山城で最も有名な建物である守御将台(ソオジャンデ)に着く。
2層式のこの建物は、王や将軍が将兵を指揮する場所である。
韓国独特の鮮やかな丹青で彩られた建物であるが、1層の柱の根元は、石で太く頑丈に固められており、建築美の中にも、戦いのための建物と言う武骨さがある。
このように、山々に沿ってしっかりと張り巡らされた城壁、武骨かつ頑丈に作られた門や建物。そして城壁内の広い平地。
これほど籠城に適した条件を備えていながら、仁祖(インジョ)はなぜ、清の猛攻の前にあっさりと白旗を上げたのだろうか。
清の攻撃が切迫していることを察した仁祖は、もしもの時は四方を海に囲まれた江華島に避難するつもりで、食糧などを運んでいた。
しかし丁卯胡乱の時がそうであったように、国王が江華島に避難することを読んでいた清は、丙子胡乱の時は、一早く王宮から江華島につながる道を押さえて、仁祖が江華島に避難できないようにした。
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そのため仁祖は慌てて南漢山城に方向転換したわけであったが、準備があまりされていなかった。
山城の周囲を清軍によって包囲されると、たちまち食糧が底をつき、降伏さざるを得なくなったのであった。
このように、清に対して屈辱的な臣下の礼をとらされた朝鮮王朝であるが、その一方で北方民族が支配する清を「オランケ」として蔑み)、自らは、明の「大中華」に対して、「小中華」であると自認し、党争を続けながらも、儒教を中心とした独自の文化を築いていった。
文・写真=大島 裕史
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