【王朝の真実】史上最高の名君の息子には妻を不幸にしてしまう運命があったのか?

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朝鮮王朝の4代王といえば、言わずと知れた名君の世宗(セジョン)である。ハングルを創製して史上最高の聖君とも称されるが、その息子の文宗(ムンジョン)は、とても影が薄い人間だった。

父親があまりに偉大すぎて過剰な重圧を受けてしまったのか、なぜか結婚で失敗ばかりしていた。

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文宗は1414年に生まれたが、結婚したのは13歳のときだった。彼は世子だったので、早めに世継ぎを作ることを宿命づけられていたのだが、その割には子づくりに熱心ではなかった。

妻の金氏(キムシ)は4歳上だった。ところが、文宗は金氏の部屋をまったく訪ねなかった。これでは子供ができるわけがない。

金氏はかなりあせっていた。夫の気を引こうとして、媚薬ばかり準備していた。それは、蛇やコウモリを干して粉末にしたものが多かった。

朝鮮王朝最高の名君と言われた世宗

文宗が気に入った側室

金氏があまりに熱心だったので、そうした媚薬づくりが王宮の中で噂になってしまい、金氏に変な評判がたつようになった。口の悪い女官からは「魔女」のように言われてしまったのだ。

噂に尾ひれがついて、とうとう金氏は世子の妻として失格という烙印を押され、実家に帰されてしまった。

次に文宗の妻として迎えられたのは奉氏(ポンシ)だった。

彼女は名門の娘として大いに期待されたのだが、文宗はあまりにそっけなくて、新しい妻に関心を示さなかった。

そんなことがずっと続いた。

失望した奉氏は寂しさに耐えかねて女官と同性愛の関係に陥ってしまった。こういった話はすぐに広まってしまう。結局、奉氏も離縁させられてしまった。

このようにして、文宗の妻は二人とも大失敗に終わった。明らかに、文宗に問題がありすぎたのだ。しかし、世子を責めるわけにもいかない。

最終的に文宗は側室の中に気に入った女性ができて、娘と息子を持つに至った。その女性こそが顕徳(ヒョンドク)王后だった。
彼女は息子である端宗(タンジョン)を産んだ直後に亡くなってしまう。

以後の文宗はどんな女性にも興味を示さなかった。

文=康 熙奉(カン・ヒボン)

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