『イ・サン』の終盤で描かれる正祖の壮大な計画とは何か?

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『イ・サン』を見ていればわかるが、主人公の正祖(チョンジョ)は、大変な親孝行だった。彼は米びつに閉じ込められて餓死した父親の思悼世子(サドセジャ)の名誉を回復することに全力を注いだ。

正祖は1776年に即位したが、13年後の1789年から父を祭り上げるための大事業を始めた。

それは何なのか。

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都の北方の楊州(ヤンジュ)にあった父親の陵墓を移すことだった。移そうとした場所は、“花が咲き誇る地”として有名だった水原(スウォン)である。そこは、都から南25キロに位置していた。なにしろ、風水で見ると陵墓の最適地であった。

こうして思悼世子の陵墓は水原に移され、顕隆園(ヒョンニュンウォン)として整備されていった。

この名前は、“顕父に隆盛で報いる”という意味だ。そして、現在では隆健陵(ユンゴンヌン)と称されている。

イ・ソジン 写真=SPORT KOREA

名君らしくない正祖

正祖は、父の新しい陵墓にひんぱんに出掛けた。

とはいえ、国王が墓参りに行くというのは準備が大変だった。特に、動員される随行員や馬の規模はすさまじかった。なにしろ、

6000余の人と1400余の馬が王の墓参に従ったという。本当に莫大な経費がかかったのだ。

それでも正祖は水原に何度も出かけ、やがて、この土地を大都会にしようと考えるようになった。その目的のために始めたのが、城郭を作ることだった。それが、今や世界遺産にも指定されている華城(ファソン)だ。

1794年2月から工事が開始され、周囲6キロの城郭は2年半で完成した。

ただし、あまりに莫大な経費がかかりすぎて、国家財政を圧迫した。このあたりは、正祖は名君らしくない。財政的に言えば、親孝行の度が過ぎたのだ。それでも、正祖は水原の都市整備を徹底的に進めて、いずれは都を水原に移そうとも思っていた。そのために、着々と遷都を準備した。

しかし、正祖は1800年に48歳で急死してしまった。それによって、水原への遷都計画も中止になった。

もし、正祖がもっと長生きしていれば、どうなったか。

ソウルでなく水原が今も首都だったかもしれない。

文=康 熙奉(カン・ヒボン)

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