韓国時代劇は、歴史に翻弄された悲劇の女性が主人公になることがよくあるが、『七日の王妃』もその1つである。このドラマでは、わずか七日で廃妃(ペビ)になってしまった端敬(タンギョン)王后が描かれている。
とはいえ、単純に端敬王后の人生をなぞっているわけではなく、奔放に歴史エピソードを加えながら、ときには大胆な歴史解釈を加えている。
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そういう意味では、『七日の王妃』は歴史エンタメとしてストーリーを面白く堪能できる作品で、端敬王后を演じたパク・ミニョンもすばらしい演技を披露していた。
そこで、パク・ミニョンが扮した王妃が実在した証しを知ると、さらにドラマが面白く見られるだろう。
もともと、端敬王后は中宗(チュンジョン)の妻であった。
当時、暴君として悪名が高かった燕山君(ヨンサングン)は、高官たちが起こしたクーデターで廃位となった。 1506年のことだ。
そして、燕山君の異母弟であった中宗が王位を継承した。すると、クーデターを成功させた高官たちは、中宗に対して端敬王后の離縁を求めてきた。
その理由は何なのか。
実は、端敬王后の父は燕山君の側近であり、叔母は燕山君の妻であった。
端敬王后の身内には燕山君の関係者が多すぎた。そのために、高官たちは、燕山君の残党たちが端敬王后を利用して仕返しをするのではないかと恐れたのである。
国王になったばかりであったが、中宗は拒絶すればよかったのだ。もちろん、最初は彼も拒んでいたのだが、最後に受け入れてしまった。このあたりは、どうしても弱気な国王であった。こうして、わずか7日で端敬王后は廃妃となった。
以後、彼女は経済的に支えられて暮らした。ドラマと違って、波乱万丈の要素はなかった。亡くなったのは1557年だった。享年は70歳。当時としては長寿であり、意外と穏やかで静かな余生であったかもしれない。
文=康 熙奉(カン ヒボン)
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