ドラマ『華政』でキム・ジェウォンが演じた16代王・仁祖(インジョ)は、1623年にクーデターを起こして15代王・光海君(クァンヘグン)から王位を奪った。
有能な王の登場を予感させた仁祖だが、即位してからは失態が目立つようになった。1624年、クーデターの功臣・李适(イ・グァル)を冷遇したことにより、反乱が起こった。
辺境の守備隊長を務めていた李适の反乱は、朝鮮王朝の国防を弱体化させた。その結果、北方の異民族である後金の侵攻を許してしまう。
仁祖はなんとか和睦を成立させるが、当時の朝鮮王朝は中国大陸の大国・明を崇めていたため、後金を“辺境の蛮族”と蔑(さげす)む態度を変えなかった。朝鮮王朝の対応に腹を立てた後金は、1636年12月、国号を清と改め、大軍を率いて朝鮮半島に攻めてきた。
朝鮮王朝は圧倒的な軍事力に対抗できず、仁祖は清の皇帝の前で土下座して謝罪。さらに、臣下の礼を強要された。これほどの屈辱を受けた国王も、朝鮮王朝には他にいなかったのではないだろうか。
仁祖は鬱屈(うっくつ)した。
「なぜ、こんな屈辱を受けなければならないのか……」
あれほど「辺境の蛮族」と馬鹿にしていた相手に屈服することは、仁祖のプライドをひどく傷付け、清への憎しみを増加させていく。
しかし、民衆は仁祖を罵(ののし)り、「情けない王のせいで、我々の生活は苦しくなるばかり」と非難した。
結局、清は朝鮮王朝から莫大な賠償金と、大量の人質までも奪っていった。中には、仁祖の長男の昭顕(ソヒョン)世子、二男の鳳林(ポンニム)大君、三男の麟坪(インピョン)大君の姿もあった。
まだ幼かった麟坪大君は翌年に返されたが、昭顕世子と凰林大君はその後も人質として、清に捕われたままだった。
清では、昭顕世子と凰林大君も一応は王子として遇せられたが、外国での人質生活は、兄と弟の心に異なる影響を与えた。
昭顕世子は清に入ってくる西洋の技術や文化に心を震わせた。そして、積極的に西洋人と交流をもち、西洋文化に心酔していった。
一方、鳳林大君は世子である兄を守るため、清の中で常に目を光らせていた。その間、彼も西洋文化に触れる機会はあったが、敗戦国の王子と馬鹿にする周囲の視線を感じていたため、清への恨みを強めるばかりだった。
昭顕世子と鳳林大君の生活ぶりは、父である仁祖に逐一報告された。仁祖は憎き清と友好を深める昭顕世子に対し、怒りを募らせていた。
また、仁祖は清から徹底した「反清思想」の持ち主だと思われていたため、昭顕世子が帰国すれば、王の座を追われるという噂まで流れていた。そのことも昭顕世子に対する仁祖の疑心暗鬼に繋がっていった。
一方、仁祖が自分に不信感を抱いていると知らなかった昭顕世子は、早く帰って清と西洋文化のすばらしさを父に報告したいと胸をはずませていた。
1645年、ようやく昭顕世子は解放されて帰国した。
すぐに昭顕世子は父を訪ねた。しかし、久しぶりの再会にもかかわらず、仁祖はそっけない態度を見せるばかりだった。
それどころか、昭顕世子が清と西洋の文化のすばらしさを語り始めると、露骨に嫌な顔を浮かべ始めた。昭顕世子が帰国の際に持ち込んだ外国の機械や書籍を見せると、仁祖は手元にあった硯(すずり)を昭顕の顔に投げつけて、どなり散らした。
「世子という立場にありながら、憎き清の言いなりになるとは……。今すぐこの場から立ち去れ!」
父の剣幕に驚いた昭顕世子は、悲しみに暮れながら仁祖の前から立ち去った。この事件の2カ月後、昭顕世子は原因不明の死を遂げる。
彼の遺体は、黒ずんでひどく腫れあがっていた。まるで毒殺されたかのようだった。
不可解なことに、仁祖は昭顕の主治医を処罰しなかった。王族が命を落としたら、主治医が処分を受けるのは当然だったのに……。
さらに、仁祖は昭顕世子の葬儀を王位継承者とは思えないほど簡素に済ませた。
仁祖の対応によって、その後に「仁祖が昭顕世子を毒殺したのでは?」という疑いが強く残った。疑惑は、仁祖が昭顕の残された家族までも自決や流罪に追い込んだことで、一層深まっていった。
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