朝鮮王朝は王を頂点とする中央集権国家で、官僚が王を補佐する。彼らは科挙という試験を受けて出世した人たちだ。女性はその科挙を受けられないので、政治にまったく関与できない。
ところが、朝鮮王朝の歴史を見ると、幼くして王が即位した場合は、成人になるまで王族の長老女性たちが「垂簾聴政」と呼ばれた摂政をする。
つまり、政治を代行するのだが、彼女たちは政治の最終決定ができる立場なので、女帝のように振る舞うこともできた。
朝鮮王朝の政治の表向きは男性が仕切っていたが、垂簾聴政によって長老女性たちが何度も政治を任された。
要するに、物事には何でも表と裏があるのだ。表向きの政治は建前が多いが、その裏で王の母や祖母が大妃(テビ)として、朝鮮王朝の政治を牛耳ったのだ。
また、王妃や側室も個人的に王と会話する機会が多く、気弱な王だと強い女性の意見に左右されやすかった。
さらに女官の中にも権力志向の強い人がいて、そういう女官が裏で王の政敵を排除することもあった。女官の中から王に寵愛されて側室になった人が多く、そんな側室は自分の子供を王にしたいという野望を持ち、朝鮮王朝の政治を大きく動かしていった。
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このように、強い女性が権力を持てたのは、朝鮮王朝が儒教を国教にしていたことも影響していた。
儒教の最高の徳目は「孝」で、絶対権力を持つ王も民衆の模範として両親や祖父母を一番に考えなければいけない。王の母や祖母は長幼の序で敬まれる立場であり、ある意味では、儒教が国教だったから王族女性が権力を持ちやすかったのだ。
それだけではない。儒教には男尊女卑を認めるところがあり、概して女性は低い身分に甘んじなければならなかったが、才能や野望がある女性はそれに甘んじることなく、逆にバイタリティを持って自分の野望を叶えていった。
男が優遇される社会だっただけに、男には甘やかされて弱いところがあった。そうした背景を利用して、力のある女性は策を弄して成り上がっていった。
こうして、「弱い男」より「強い女」が朝鮮王朝の歴史を作っていったのである。
文=康 熙奉(カン ヒボン)
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