朝鮮王朝の22代王・正祖(チョンジョ)は名君として有名だが、時代劇『赤い袖先』では本名のイ・サンとして登場し、ジュノ(2PM)が演じていた。実際の歴史では、イ・サンの政敵だったのが、最大派閥の老論派(ノロンパ)である。その闘いが熾烈だった。
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当時を振り返ると、父の思悼(サド)世子が「米びつ餓死事件」で世を去ったあと、イ・サンは世孫(セソン/国王の後継者となる孫)となった。しかし、老論派は彼の即位を阻止するために暗躍した。
そんな老論派がもっとも動揺したのは、英祖(ヨンジョ)がイ・サンに代理聴政(テリチョンジョン/摂政)をさせると言いだしたときだった。時は1775年11月20日。英祖は宮廷に重臣たちを呼び集め、重く張りつめた空気のなかで歴史に刻まれる発表を行った。
このときの英祖はすでに81歳という高齢に達しており、在位も51年に及んでいた。心身の衰えを隠すことができず、彼の声には深い疲労と孤独がにじんでいた。そんな英祖は重臣たちの前でこう言った。
「まだ若すぎる世孫であるが、老論について知っているだろうか。国の政治というものを知っているだろうか。官庁の長官を誰に任せればよいかを知っているだろうか。余は若すぎる世孫にも、それらをわからせてあげたいのだ」
これは、衰えゆく国王の切実な願いであった。だが、その言葉に真っ向から反発した者がいた。左議政(チャイジョン/副総理)の洪麟漢(ホン・イナン)である。彼は険しい口調で、宮廷の空気を一変させる言葉を放った。
「世孫は、老論のことを知る必要がありません。官庁の長官のことも知らなくていいし、朝廷のことも知る必要はありません」
あまりにも過激なその発言は、まるで鋭い刃のように周囲を切り裂いた。なにより問題だったのは、その場にイ・サン自身が同席していたことだ。英祖が未来を託そうとする眼前で、洪麟漢は「世孫は国王の器でない」と断言したも同然で、あまりに失礼だった。
洪麟漢は、イ・サンの母である恵慶宮(ヘギョングン)の実弟であり、イ・サンの大叔父だ。親族でありながら、イ・サンにこれほど冷酷な言葉を投げかけたのは、老論派の中に芽吹いていた焦燥と恐怖の裏返しであった。
文=康 熙奉(カン・ヒボン)
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