【『太宗 イ・バンウォン』のダメ押し解説】滅びゆく高麗はどんな王朝だったのか

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テレビ東京の韓流プレミアで放送中の『太宗 イ・バンウォン~龍の国~』。序盤では末期の高麗王朝が新しい朝鮮王朝に移っていく過程が描かれている。とはいえ、視聴者の中には「高麗はどんな国?」とわかりづらい部分も多いはず。そこで、簡潔に高麗王朝について解説しよう。

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初代王の王建(ワン・ゴン)によって918年に建国された高麗王朝は、936年に新羅に次ぐ偉大な統一国家となった。しかし、当初の政権運営は危うかった。王建が政略結婚に積極的に取り組んでいたからだ。彼は各地の豪族を取り込むために、大胆な結婚を繰り返した。

実際、彼には29人もの妻がいたと言われている。この影響によって高麗王朝は一夫多妻制を採用していた。『太宗 イ・バンウォン~龍の国~』を見ていて、李成桂(イ・ソンゲ)に2人の妻がいるのも、こうした制度が関係していたのである。

また、高麗王朝は王建の方針で仏教を厚く保護した。彼は遺訓でも「仏教を重んじよ」と強調していた。その結果、町中には多くの壮大な寺院が建てられて、とても神聖な雰囲気が漂った。

しかし、極端に仏教寺院を優遇したために、僧侶が政治的にも力を持ちすぎて、王朝が傾く原因にもなった。こうした弊害をつぶさに見ていた李成桂は、朝鮮王朝を築いたときに仏教関係者の政治への介入を警戒し、国教を仏教から儒教に変えた。

太宗イ・バンウォン~龍の国~
(画像=KBS)

高麗王朝の最後の瞬間

芸術面では、高麗文化を代表したのが青磁である。中国の影響を受けた高麗青磁は12世紀半ばには独自の美しい色合いと形が発展し、その優雅さが大いに称賛された。特に貴族社会で愛された高麗青磁は、朝鮮半島で一番の美術品となり、その名声は現代にも波及している。

高麗王朝の最後の瞬間を見てみよう。1388年、大将軍だった李成桂は都の開京(ケギョン)を陥落させ、政権を握った。その後、彼は傀儡を王位につけて裏で王朝を操ったが、ついに1392年に34代王・恭譲王(コンヤンワン)を追放して、自ら国王になって朝鮮王朝が誕生した。こうして高麗王朝が滅亡した。

文=康 熙奉(カン・ヒボン)

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