【トンイと張禧嬪】息子たちの即位を望んだ母親たちの争いの結末は?

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時代劇『トンイ』も終盤になってくると、粛宗(スクチョン)の2人の息子が何かと比較されるようになっていく。その2人とは、張禧嬪(チャン・ヒビン)の息子の世子(セジャ)とトンイが産んだクムだ。ライバルだった張禧嬪とトンイのそれぞれの息子たちなので、どのように育っていったかということはとても興味深い。

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まず、世子から見てみよう。彼は1688年に生まれ、わずか2歳だった1690年に世子になった。その早さは異常と言える。粛宗がすでに30歳の壮年であり、他に継承可能な王子が存在しなかったため、張禧嬪の子がただちに世子の座を継ぐこととなったのである。

しかし、その地位は安定したものではなかった。それはなぜなのか。1694年にトンイこと淑嬪・崔氏(スクピン・チェシ)から生まれたクムが幼くして優秀さを発揮したからである。

クムの頭脳明晰さは早くから認められており、その事は『トンイ』という作品でも詳細に描かれている。一方、世子は病弱であり、後継ぎとしての適性に周囲は不安を覚えていた。しかし、粛宗は長男である世子を信じて、その地位を揺るがせなかった。それでも、世子にとって最大の危機は1701年に訪れた。

それは、仁顕(イニョン)王后の死と共に張禧嬪が呪詛(じゅそ)を行っていた事実が明らかになり、死罪にされたときであった。その折、世子の交替を唱える声が重臣たちから上がったが、粛宗は世子の立場を守り抜いた。彼は、なんとしても長男が王位を継ぐことを望んでいたのだ。

『トンイ』で強烈なライバルだった2人(写真=SPORTS KOREA)

息子同士は仲が良かった

時は流れ、1720年に粛宗がこの世を去った。そして世子が王位を継ぎ、景宗(キョンジョン)となった。張禧嬪の切なる願い通り、彼女は死後に王の母となったのである。だが、景宗は子供を授かることはなかった。結果として、景宗の正統な後継者は、淑嬪・崔氏の息子のクムとなった。

1724年、景宗が人生の幕を閉じ、クムが王位を継ぎ、英祖(ヨンジョ)となった。結局、張禧嬪とトンイの子供は二人とも王位についた。母親たちは強烈に争ったが、息子同士は意外と仲が良かった。

文=康 熙奉(カン・ヒボン)

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