朝鮮王朝19代王の粛宗(スクチョン)は、韓国時代劇によく登場する国王だ。人気ドラマの『トンイ』ではチ・ジニが人間味あふれる表情で演じていた。
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実際のところはどんな国王だったのか。統治者として実績があったのかどうか。そういうことを含めて粛宗の人物像にスポットを当ててみよう。
彼は1661年に生まれた。幼少期より鋭敏な思考力を持ち、成人後も多面的な戦略家として巧妙だった。その成果で、彼は王権を一段と強化させた。
その数々の実績を考察すると、粛宗は優れた国王であったと断言できる。少なくとも、彼は単なる"飾り物"であることを拒否し、自らの思考を働かせる姿勢を保ち続けた。
彼はまた、庶民の生活改善に執念を燃やし、特に農地の整備に心血を注いだ。並行して、商業を推奨し、本格的な貨幣鋳造事業に着手し、市場の活性化に全力を尽くした。
朝鮮王朝は元来、儒教を国教とし、商業に対して軽視する風潮があった。儀礼を基にした精神世界が尊重され、物質的な利益追求は見下されるのが一般的だった。しかし、粛宗は民衆の生活安定には商業の発展が不可欠であると認識し、そのための制度を整備した。彼の断行した商業政策は、17世紀から18世紀にかけて庶民生活の向上に寄与したと評価できる。
さらに、「党争」の問題に粛宗は取り組んだ。もともと朝鮮王朝の歴史を辿れば、国王は常に党争に悩まされており、粛宗の治世では高官たちが南人(ナミン)派と西人(ソイン)派に分裂し、激しく争った。
彼はこの党争を王権強化の手段として利用しようとした。粛宗は党派の対立を見越して、自身に忠誠を尽くす者を優遇する手法で王権を増大させていった。その意味で、粛宗はしたたかであり、政治に巧みな国王だった。
しかしながら、女性問題に関してはトラブルが多発した。1689年に仁顕(イニョン)王后を突如として廃妃にし、側室の張禧嬪(チャン・ヒビン)を王妃に昇格させたが、わずか5年後には再び張禧嬪を側室に降格させて、仁顕王后を再度正室に迎えた。これらの行動は全て粛宗の独断であり、それが王宮の混乱を引き起こしたことは疑いようがなかった。
文=康 熙奉(カン・ヒボン)
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